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夢浮橋

光が差し込んでいる執務室の中には墨の匂いが漂っていた。
しかし諸葛亮が書簡を探しに席を立つと空気がかき混ぜられて墨の気配が薄れ、替わりに彼の香油が仄かに匂い立つのであった。
その香りを感じながら、姜維はひとつ息を吐いた。思わず筆を置いて口と鼻を覆う。
というのも、姜維はこの香りが苦手であった。嫌い、なのではない。この爽やかで微かに甘いそれは諸葛亮に非常に似合っていて好ましいのではあるが、同時に姜維の胸の底で名状しがたい何かが疼くのであった。特に書簡の内容を議論している時に、傍に寄られると一層その香りを感じてしまい内心うろたえる有様だった。
「姜維、どこか不明な点でもありましたか」
席に戻った諸葛亮が書簡を見たまま静かに問うた。
「あ、いえ、少し考え事を・・・。申し訳ございません」
その言葉に諸葛亮は、問題ありませんよ、とでも言うように姜維の方を向いて微笑んだ。その笑顔にまで姜維の胸は傷むのだった。優しい上役に、一体自分は何を思っているのだろうか、と。
いつからだろうか。姜維はまとまらない思考の中で回顧した。いつからだろう、あの、低く静かに響く声が妙に甘く聞こえるようになったのは。風に靡くあの美しい黒髪に目を奪われるようになったのは。袖を手折る際に、薄い爪がついたあの手に見惚れたり、考え事をする時に指をのせるその唇につい目がいってしまい、慌てて背けたりするようになったのは、ああ、いつからだったろう。
「そういえば」
諸葛亮が切り出した。
「先日話していた、新しい兵法書が拙宅に届いたのですが、どうです、今宵にでも覗きにきませんか」
その言葉に姜維は戸惑いながら答えた。
「それは是非。・・・ですが、私のような者が丞相の邸宅にお邪魔しても宜しいのでしょうか・・・」
「どうしてです。当然ではありませんか」
驚いたような顔をして諸葛亮は頷いた。そして何かを思い出したようにふと口元を綻ばせる。
「今日は少し早めに切り上げて夕餉も一緒にとりましょう。ただ、あれの料理は本当に多いので覚悟しておいて下さいね」
「それは・・・、恐縮致します。夕餉までご馳走になるなんて」
「遠慮はいりません。いつも私ひとりでは食べられないような量ですから、むしろ有り難い程です」
「・・・有り難うございます。ご相伴にあずかります」
「また、今宵はそのまま泊まっていきなさい。貴方の邸よりは、拙宅の方が丞相府に近いですし、明日楽でしょう」
「何から何まで・・・。本当に恐れ入ります。有り難うございます」
素直に礼を告げた姜維に対して、諸葛亮は満足そうに微笑んでからまた書簡に目を落とした。それを見て、また姜維の心は震えるのだった。

 

  

諸葛亮の私邸は本当に一国の丞相の邸宅なのだろうかと疑いたくなる程小さかった。
驚く事に門人さえついておらず、これでは盗人などが入って万が一刃でも向けられたらどうするのだろうと姜維は訝しんだ。無防備にも程があるように思え、それを聞いてみると「門人を置く方が、かえって怪しまれるでしょう。どうせ小さな宅ですし、好んで入り込む盗人はおりませんよ」と暢気に笑った。
門から邸へ歩いていく途中、こじんまりとした庭が見えた。咲き残りの糊空木の花は未だ白くぼんやりと闇夜の中に浮かび上がっていて、他には金鐘花と寒椿も行儀良く整えられてあった。小さな池もあり、そこには石の橋が掛かっていた。夜風に混じって微かに青葉木兎が一声ほうとどこかで鳴いたのが聞こえた。先に邸の中に入っていった諸葛亮を追っていく姜維の耳に、夫を迎える月英の声が聞こえてきた。
「おかえりなさいませ孔明様。・・・あら、姜維殿まで。ようこそおいで下さいました。わざわざご足労痛み入ります。・・・孔明様、そうであればそうと御一報下されば助かりましたのに」
「その方がかえって、貴女に気を遣わせると思いまして」
「気を遣うべきは私にではなく、姜維殿に」
その言葉に諸葛亮は自嘲するように声を上げた。
「それもそうですね。申し訳ございません、姜維。ついつい、貴方相手だと気安くて・・・」
「そんな、こちらこそ。そう仰って下さる事こそが身に余る光栄でございます」
「まあまあ、ともかく、殿方達は夕餉の準備が整うまで奥で一服なさっていて下さい。すぐに茶を運びますから」
月英が厨へ戻る足音を後ろに聞きながら、姜維は奥へ引っ込む諸葛亮の背を追った。
「片付いていなくて、恥じ入るばかりですが・・・」
着いたのは諸葛亮の書斎だった。そこには溢れるばかりの書物が床に、机上に氾濫していた。
「あれに、よく叱られます」
姜維の方を向きながら、そう諸葛亮は苦笑した。そして机上から一冊の書物を手に取って姜維に見せた。
「これが、言っていた兵法書です。今、長安の方で流行り始めたらしく出回っている数もまだ薄いようです」
「新しい兵法ですか」
「いえ、大元は六韜です。ですが、それに新しい注釈が加わっているものです。・・・あ、ここです。ここが非常に興味深い箇所でして」
書物を指差しながら諸葛亮は色々と説明を始めた。どことなく夢中になって話している様子は、まるで子供のようでもあり、普段の彼からは想像ができないものであった。この人はこんな表情も出来るのか、と姜維は新しい発見をした嬉しさで満たされた。なにより彼の表情がいつもと比べて柔らかく、それを愛おしく感じてまった。しかし慌ててその気持ちを打ち消そうと勤めた。これ以上この気持ちを膨らませると収集がつかなくなりそうだったからだ。
少しすると月英が茶を運んできた。その後も二人で兵法について語りあった。
しばらくすると何やら美味しそうな匂いが漂ってきて、姜維はついつい自分の腹を抑えた。そうしているうちに月英が「支度が整いました」と呼びに来た。

 

   

卓がある部屋に行くと、そこには本当に沢山の料理が用意されていた。数も量も多く、馴染みのある料理から見た事がないものまであり、姜維はついつい各料理を見つめてしまった。
「さあ、食べましょうか」
まず諸葛亮が席についたのを見てから姜維が座った。
「丞相、まさか毎日この量を・・・」
恐る恐る聞いた姜維に、諸葛亮が笑って返した。
「さすがに、それは。いつもはこれよりも少ないですからね」
「それでも、すごい量だと思いますが・・・」
「ええ・・・。私もそろそろ、皆に混じって調練に参加するべきかも知れませんね」
話していると茶器を手にした月英が来て一緒の卓に座った。
「月英殿、今宵は本当に有り難うございます。いただきます」
「お気にせず。姜維殿、もし足りなかったら遠慮せずに仰って下さい。まだありますから」
「あ、いえ・・・、恐らく足りると思います・・・」
器と箸の音を響かせながら、三人は食事を楽しんだ。味はどれも美味しく、はじめは多いと思っていた料理も飽きなく食べられてしまうので、姜維は空腹も相まって次々と平らげていった。今日あった事を話したり、料理について聞いたりした。時々月英が茶を足したり、終わった料理の皿を下げるために席を立ったりした。
楽しい時間が終わり一服していると月英が顔を出した。
「湯が整っておりますので、どうぞお使い下さい」
「そうですか。姜維、先に入りなさい」
「い、いえ。さすがにそれは出来ません。どうか、丞相がお先に入り下さい」
「貴方は調練などで疲れているでしょう。私は身体を動かしておりませんから」
「しかし、さすがにそれは・・・」
姜維がどうするべきか迷っていると、月英が助け舟を出してきた。
「孔明様。姜維殿を困らせても仕方ありません。孔明様から先に入ってはいかがでしょう。そうすれば、姜維殿も後で気兼ねなく湯につかれるでしょうし」
「そうですか。・・・分かりました。それでしたら、先に頂きますね」
そういって退室していった諸葛亮の背を見つつ、月英が呟いた。
「時々、孔明様はご自分の身分をお忘れになるのです。誰だって、一国の丞相に対しては恐縮してしまうものですが、孔明様はご自分がその丞相であるという事を失念する時があります。ですので、相手にしてみれば気が休まらない事もあるでしょう」
「そうですね・・・。しかし、そういう所が、丞相の本当に良い所なのだと思います」
「ふふ。それは、私も思います」
そう言って二人は笑い合った。
雑談をしていると諸葛亮が湯から上がってきた。洗いざらしの髪そのままで、瑠璃紺の袍に白練の帯を締めていた。いつもと違う雰囲気に姜維はどこか落ち着かない気持ちになった。近寄ってきて「お待たせしました」と言った諸葛亮からは水の香りがして、思わずそれに酔いそうになる。それを振り払うように湯殿へと向かった。
湯から上がると袍が用意されていた。手に取って、これは丞相のものだろうかと姜維は思いを巡らせた。いつもの香油が袍に残っているような気がして、羽織る際に少しだけ面映い思いがした。
帯を締めて湯殿から出ると諸葛亮が「今宵は私と同衾で宜しいですか。恥ずかしながら、客間すらありませんので・・・」と聞いた。勿論です、と答えた姜維は、奥へと引っ込む諸葛亮の後を追った。
寝所でも二人は政、戦、農法から国の将来まで様々な話をした。そのうち姜維があくびを噛み殺したのを見て、諸葛亮が「ああ、ごめんなさい。貴方が疲れている事に気付きませんでした・・・。今宵はもう、寝ましょうか」と言った。
そうして、その日は二人とも眠りについた。

  

  

姜維はふと目を覚ました。

外を見るとまだ夜半であった。月は十五夜に近く、寝所の中も明るかった。
横に目をやると諸葛亮が寝ていた。姜維はそれを見つめた。
いつからだろうか。この人を見ては胸が騒ぐようになったのは。月明かりで目元に影が出来ている顔を眺めて、ひとつ息をついた。
思わず手を伸ばして、そっとその鼻筋をなぞった。指の背で頬を触ると、思った以上にすべらかでその肌触りに心が浮ついた。そのまま唇にも指を落とした。小さく開かれている口元からは寝息が漏れて姜維の指を湿らせた。
口づけをしてみたい。と、姜維は思ってしまった。いけないと思いつつも、今を逃したら恐らく生涯そうした機会に出会さないだろうと考えると、気付かれないように一度だけならと思ってしまった。
しかし、いざしてみようと思うとどうにも躊躇した。何度か顔を近付けてみては思いとどまったりというのを繰り返しているうちに、諸葛亮が小さく身じろぎをした。それを見た姜維は早くしないと、と思い、静かに顔を近付けて口を合わせた。その柔らかさに姜維は気持ちの箍がずれたのを感じた。早く離さないとと思うが、どうしても出来なかった。思わずもう少しだけ、もう少しだけと口づけをつい深めてしまった。
その時、諸葛亮がひとつ声を漏らした。どうやら目を覚ましたらしい彼から急いで唇を離した。目を開けた諸葛亮は未だ夢現といった感じであったが掠れた吐息と共に、姜維、と小さく名前を零した。
その瞬間、姜維の中で何かが完全に外れてしまい、思わず再度口を奪ってしまった。それも、強く。抵抗出来ないように身体も重ねた。
はじめは何をされているか分からない様子の諸葛亮だったが、段々と目が覚めてきて状況を把握しだすと抗った。しかし、力では到底姜維に敵わなかった。
唇を離す際に小さな音がした。諸葛亮が息をしようと口を開けたのを見計らって、また口づけた。顎に手を伸ばして大きく口を開けさせた。何度も追うように諸葛亮の舌を舐め回した。そのなめらかさ、温かさに姜維は胸が締め付けられた。濡れた音に混じる、彼のくぐもった声が姜維の心をかき乱した。
頭のどこかでは、これ以上はいけないと分かっていつつも、もうどうしようもなかった。どうにもできなかった。
姜維は諸葛亮の帯を解き抜いた。それを使って抵抗する諸葛亮の両手首を頭の上で縛り、寝台の柱に括りつけた。両手で諸葛亮の身体をまさぐりながら、口を首筋、鎖骨へ胸元へと這わせ、肋骨のあたりで一度強く吸ったら、微かに諸葛亮が息を呑んだ。
そして、脇腹、腰骨へと辿っていくと、諸葛亮が身を捩った。
「あ、止めて下さい・・・っ」
その声を聞きながら、姜維は口でそれをくわえると諸葛亮が背を浮かせた。足をばたつかせるので、姜維は手でそれを抑えた。舌の上で転がすようにすると、諸葛亮が短く息を漏らし始めた。
「・・・やっ、ん・・・」
しばらくそうしていると、諸葛亮が小さく震え出した。姜維は口を離して、今度は手でそれを扱い始めた。括られた自分の腕に頭を擦り付けて熱い息をしている彼を見ていると、姜維の嗜虐心が煽られた。
「丞相・・・。どうか、私の名を呼んで下さいませんか・・・」
「・・・」
「でないと、いつまでも、このままですよ」
ゆるくこすりながら呟いた。彼はいやだというように首を振ってみせた。
「・・・は・・・ぁ」
「私の目を見て下さい・・・」
そう言いながら、尚もゆっくりとそれを扱う。諸葛亮は胸を反らながら絞り出すように呟いた。
「・・・きょ、・・・姜維・・・」
荒く息を繰り返す彼の口の中から、小さな舌がちらりと覗いた。
それといい、声音といい、吐息といい、今にも泣きそうな目元いい、その全てが姜維の雄の部分を刺激した。
「丞相・・・。ああ、どうか、字も・・・」
「・・・んっ・・・」
動く喉元を味わうように、そこへ深く口付けた。目立つ場所なので痕はつけないが、そっと吸うと息が震えた。
「・・・は、はくや、く・・・っ、ああ・・・っ」
姜維は字を呼ばれた瞬間に、扱っているものの先を爪で引っ掻いた。その瞬間の声に、姜維は堪え難い疼きを感じた。喘ぎ声で自分の字を紡がれる事がこれほどまでの悦楽を生むとは。たったこれだけでこんなにも感じてしまうとは。
更に扱っていくと、諸葛亮は涙を流しながら悶えて大きくわなないた。

  

  

姜維はふと目を覚ました。
異様な興奮が身体の奥に残っていた。自分は何ていう事をしてしまったのだろう、とぼんやりと思い、いやしかし何か変だ、と感じた。何か違和感があった。隣を見ると諸葛亮がいなかった。
自分は丞相を抱いてしまったのだろうか、と混乱した頭で姜維は考えた。
もしや、あれは夢だったのではないだろうか。
それとも、それは自分の都合の良い思い込みだろうか。
寝台も自分の袍にも乱れはなく、本当に夢であるように思えた。
しかし、例え夢であったとしても自分の本心はああなのだろうか、と思うと姜維の気持ちは塞いだ。諸葛亮を尊敬しているその裏で、彼を蹂躙したいという欲が自分の中に同居しているのだろうか。だとしたら、なんということだろう・・・。
諸葛亮の肌、舌、喘ぎ、表情、そういったものが思い返されると、否応無しにその時の快楽が追尾してきて、姜維は呻いた。
とりあえず頭を冷やそうと外に出る事にした。
そうすると、中庭に面している廊下に諸葛亮はいた。月明かりの下で書物を読んでいるようだった。
風もないのに庭の木々から葉がひとつふたつと落ちて、乾いた音が響いた。
姜維の足音を聞いた諸葛亮はそちらを向いた。
「ああ、姜維。どうしましたか」
諸葛亮はいつもの様子だった。恐れも、戸惑いも、何かを隠している様子もなかった。
ああ、あれは夢だったのだ、と思いつつも未だにその確信が持てきれず、姜維は言葉を詰まらせた。それを見た諸葛亮は、首をかしげた。
「姜維。どこか、具合でも」
「いえ、・・・いえ」
「・・・」
「丞相、・・・丞相は何をされているのですか」
「ああ、私は、なんだか眠れなくて書物を・・・。良くある事なので、もう慣れていますが」
「・・・ずっと、ここにいらっしゃいましたか」
「ええ。・・・どうしてですか」
「いえ、特に深い意味は、ありません」
そう言った時に、先程の諸葛亮の表情や声が思い出されてしまい、姜維は思わず顔を覆った。
「姜維。本当にどうしましたか。何か、悩みでも・・・。私で宜しければ、聞きますが」
姜維は首を横に振った。それを見た諸葛亮は書物を置いて姜維に近付いた。
「どうしました。ほら、顔を見せて下さい」
そろりと手をどけた姜維の顎に手を添えて、諸葛亮は顔を寄せた。
「丞相・・・っ」
姜維の頬に、諸葛亮は優しく口づけを落とした。
「喬が小さい頃、こうしてやると泣いている時に落ち着きやすかったものですから・・・。貴方に効き目があるかは、分かりませんが」
口づけをされると誤解した姜維はひどく驚いた後に、そういう事かと深く安堵した。そうすると、もう抑えられない何かが浮かんでは消え、行き場のない思いだけが暴れて、どうすれば良いのか分かなくなった末に姜維はいつの間にか一筋涙を流していた。
それを見て、諸葛亮は静かに姜維を抱きしめた。子供をあやすように頭を撫でる。
「言いづらい事でしたら、無理に言う必要はありません。涙も、我慢しなくていいですよ」
姜維は諸葛亮の肩に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。心の中で、何度も何度も「ごめんなさい」と呟いた。
しばらく諸葛亮は姜維の頭を撫でていた。
そんな二人の周りに一陣風が吹いた。
糊空木の落ち葉が橋から池に滑り落ちた。生まれた波紋が映っていた月を揺らしては、消えた。

  

  

   

   
おわり

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