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山雀

一瞬誰が声を荒げたのか分からなかった。
周りをみると皆が皆同じように惚けていた。もれなく自分も同じような顔をしているのだろう。吸った息が、煩く聞こえた。静まり返った教室に、遠くで大工作業をしているのか小気味良い木槌音が滑り込んできた。
司馬徽先生がひとつ、咳払いをする。
孔明がひとつ、息をついた。
この男が、まさかあんな大声を出すことがあるだなんて誰が想像しただろう。この、物静かな男がこれほどまでに怒ることがあるなんて、考えてもみなかった。
  
乱世というものは、あらゆるものを変えてしまうものだ。何もかもが頼りなく、何もかもが役に立たない。だからこそ、僅かなものでさえ人は手に入れようとする。そして既に新しく何かを手に入れるには遅過ぎると考えた者達は、我が子にそれを託そうと考える。例えば、それは学問の経歴。名家であろうと、豪族であろうと、可愛い息子達に少しでも泊が付けばと様々な名士の門扉を叩かせようとするのだ。そうしたなか、中原の南、様々な人種が行き交う要の地、荊州に位置する名士と言えば水鏡と呼ばれ人物鑑定家として定評がある司馬徳曹その人であった。
だが、そういった乱世特有の世情になると玉石混合、学問に興味がある者から、親に無理矢理塾に押し込められた学問嫌いの者が、塾という同じ空間にひしめき合うのである。生まれるものは当然軋轢であり、不協和音であった。乱世の中に湧く澱のごとくそれは、司馬徽塾であっても不可避なものであった。しかし、だからこそ自分のように脛に傷持つ人間がこうした名門に入学できたのも、また乱世然りなのであった。
そんな中に目立たず、いることすら忘れてしまいそうになる男がいた。
いつも無造作に結髪を流している男で講義中に発言もせず、講義外の時間に誰かと談笑する訳でもなく、物静かな彼は確か諸葛孔明といったか。
なかなかの名家だったらしいが、今は大人し過ぎるこの男が家長を勤めているというそれは、乱世の中にどこにでもある家の凋落であった。見るに、自分よりも若そうであった。
どこにでもいる男、どこにいても気付かないような男が、ある時に他の塾生を一喝することがあった。
教室の中には学問嫌いで、講義が終るまでどのように時間を潰すにしか頭を使いたがらない輩が昨今は特に多く混じっていた。彼らは自分たちの談笑にも飽き、次はあろうことか司馬徽先生の講義が退屈だと陰口を叩き出したのだった。
はじめは我慢をしていたのだが、一向に陰口が収まらない為にいよいよ不快になってきた自分が嗜めようと口を開けかけた時に、けたたましい音が教室に響いた。驚いて音がした方を向くと、諸葛孔明がどうやら机に自分の拳を叩き付けらしく、陰口の方を向いて「黙ってもらえないか」と静かに言い放った。思わぬ人間の、思わぬ態度に虚をつかれたのか一瞬黙った彼らはそれでも負け惜しみのように何かを言い合っていたが、それはもう先程のように大きな声ではなかった。他の塾生たちもどこか緊張しているように見えた。彼の、あの不思議な迫力は何だったのだろうと思いながら、怒りを抑えながら静かに言い放った表情は今まで見たことがなく、どこか得体の知れない彼の素地を見た、という気がした。
そしてそれは、なんと言えばいいのか分からない程にどこか生々しく、しかし、どうした訳か、ひどく美しかった。
  
それから周りは一目置くようになった彼であったが、当人は特に気を留めることもなく黙々と日々過ごしているようであった。自分も、あれから彼のことが気になってついつい目で追ってしまうのだが、物静かな塾生にありがちな真面目腐った生徒、という訳でもなさそうだった。特に史書を読むでもなく、何かの暗記に夢中になっているでもなく、何かを書き留めているでもなく、誰かと議論するでもなく、だた飄々と時間の流れに身を任せているような、若くしてどこか隠者の風格があった。彼は何を考え、何をしようとしているのだろう。確か、親も後見人もいない筈である。無理矢理塾に入れられた訳でもあるまい。自分の意志で学問をしにきているはずだった。しかし、その先が見えなかった。学問をして、それをどのように活かすつもりなのか。いつか話してみたいと思いながら、話しかけづらい雰囲気の彼を遠くから見つめる日々だった。農耕で口に糊しているという彼の面立ちは、日焼けの中にも妙に整っていて、華奢ではないのだがそこはかとない儚さが覗いた。心持ち顔をうつむかせて何かを考えていることが多く、そうしていると長い睫毛が目元に影を落とした。奥手の娘が物憂げに誰かのことを想っている時の様子にても似ていて、気が付くと自分はいつの間にか見つめてしまっていた。何度もそうしていた為か、一度訝しげな表情で見つめ返された時があった。さすがにまずいと思い、それからは出来るだけ見ないようにしているのだが、例え顔をうつむけて書物を読んでいていたとしても、どこか自分の神経はそちらへと向いてしまう。何度か見ようかどうか悩んでいるうちに、見つからなければと度々盗み見をした。彼が僅かにでもこちらを向きそうな気配があると、書物を顔の高さに持っていって思わず顔を隠した。そうしていると、一体自分は彼に対して何をやっているんだという気持ちになって、自分で自分に呆れた。そうすると、彼に対する興味が僅かにでも薄れた気がして、そうだそうだ、そのまま自分で自分に呆れておこう、と思い込みながら日々は過ぎていったのである。
 
梅が香りだした頃だった。
着古した外袍の襟をかき寄せながら白い息を吐いた。講義が終って帰路についていた。
しばらく歩いていると前方に誰かが歩いていることに気が付いた。長身の男。無造作な結髪が歩く度にちょこちょこと揺れていた。飾り気のない歩き方が、彼の飄々とした生き方を表しているようでもある。諸葛孔明だった。
彼は道中、端に寄っては何かを摘み、また逆の端によってはまた何かを拾い、ふらふらと自由気ままに歩いていた。
しかし、彼の家はこちらではなかったはず。一体何用なのだろうと思いながら後ろをついて行った。
町の外れに差し掛かったところで、急に彼は道を逸れた。手に何か持ったまま、脇の山道へと迷わず進んでいった。そんなところに何があるのだろう。人家があるようには見えなかった。
好奇心から更に自分は彼を追っていった。彼は躊躇なく山の獣道を進んで行った。高い草木を掻き分けながら進む。しばらくすると、彼は急に止まった。しゃがみ込む。何がそこにあるのだろう。彼に近付くと足下の枝が音高く折れて、驚いたようにこちらを向いた。
「どなたです」
「あ、と・・・、徐元直だ。塾で一緒の」
「・・・こんなところに、何用ですか」
「すまない。帰りに君が見えて・・・。ついつい好奇心から追ってきてしまった」
「・・・意味が分かりませんが」
「実はいうと、俺も意味が分かっていない」
そう真面目に言った自分を、あからさまに不審がって見つめてきた。
「いや、君の家って確か反対だろう。何か摘みながら歩いているし、途中で山道に入っていくし、何をやっているのだろう、と不思議に思ってさ」
「かと言って、普通わざわざついてきますか」
「よく物好きだって言われるよ」
「でしょうね」
彼がかがんでいる方を見た。茂みがある。
「それにしても、どうして一人でこんな山の中まで来ているんだい」
「・・・」
隠しても無駄かと思ったのか、彼は素直に茂みの中をそっと見せてくれた。
「怪我を、しているんです」
藁を集めて寝床のようにしてあるところに小さな鳥が一羽震えながらうずくまっていた。
「震えてる」
「急に知らない人が来たからですよ。当然です」
「それはすまなかった。ちなみに、この鳥はなんていうんだい」
刺々しく言っても一向に去る気配のない自分に対して呆れたのか、諦めたのか、彼は素直に答えた。
「山雀です」
「やまがら」
「ええ。賢い鳥のようで、旅芸人達はこの鳥に芸を教え込んで見せ物にする位だそうです」
「へえ」
彼は怯えさせない様にそっと道中摘んできた木の実を鳥の口元へ持っていった。見慣れない人間がいるからか中々食べなかったが、何度も何度も軽く啄んでからやっと食べ始めた。
「こうやって餌を運んでやってるのか」
「ええ。少し前に、怪我をして飛べないこの子を見つけまして・・・。この辺りなら人通りも少ないですし、狼もまず出ません。隠すには丁度いいかと思いまして」
木の実を啄む鳥を、彼は優しそうに見つめた。傾げた額から柔らかそうな黒髪がはらりと一房肩に滑り落ちた。
「元気になったら、芸でも仕込んでみましょうか・・・」
「芸を覚えたら、可愛いだろうな」
何気なくそう言った自分の言葉に、そうでしょう、とばかりに嬉しそうな顔で振り向いた。驚いた。
「ちょっと、やってみたいんです」
子供のように楽しそうに話す彼を、初めて見た。こういう表情も、出来るのだ。なんてあどけいない笑顔だろう。いつも教室で見せる大人びた様子との表裏の深さに自分はまた、息を呑んだ。
「早く、元気になってくれればいいのに」
彼が優しく鳥の小さな頭を人差し指の背で撫でると、山雀は安心したように目を瞑って僅かに吐息を漏らした。
つられるようにして自分もまた、そっと息をつく
ほんの少し風が吹いて周りの草木を揺らしながら、通っていった。

 

あれから教室でも話しかけるようになった。はじめは周りからも怪訝な目で見られたが、変わり者の孔明と変わり者の自分がつるむのは至極自然とばかりにすぐに気にされなくなった。
彼は弟と二人で暮らしているらしい。農耕をしながら生計を立てている彼に、どうして司馬徽門下で学問をするのかと聞いたことがあった。
「特に理由はありません」
そう素っ気なく言ったにも関わらず、彼はいつも学問のことが頭にあるのを自分は知っていた。積極的に議論の輪に入ることはなくても、こちらから何か意見を求めると想像もしていなかった内容が戻ってきた。自分は彼が書物を読んでいるところも、何かを書き留めるところも見たことがなかった。到底真面目に勉強をしているように見えなかったのだが、聞けば驚く程の知識が彼の中にはあった。感嘆するほどの考察が詰まっていた。また、聞けば以前司馬徽先生に陰口を叩いた塾生達を一喝したのも、学問の師として仰ぐ先生を侮辱されたような気がして怒ったからだ、と言った。これだけのものを持っていて「特に理由はない」筈はなかった。だが、追求出来るほど物事は単純にも見えなかった。こちらには見せない何かが、自分と彼の間にある気がして深い質問はできなかった。
ただ、考えごとをしていると食事を忘れ、家に帰ってから寝ることを忘れるらしく、どこか顔色が悪い時はおせっかいだと顔をしかめられることを覚悟でいつも小言を言った。それを嫌そうな顔で聞きながらも、彼は自分から離れることはなかった。自分が彼の傍に行っても、席を立つことはなかった。それを、自分は勝手に「受け入れられている」と認識し、本当の意味で嫌がられない線を超えないようにして、いつもちょっかいを出した。
どことなく、癒されない、大きな子供。
しばらくして、彼に対してそういった印象を持つようになっていった。
大人ぶっているが、どこか大人に成りきれず、かといって子供にも戻れない。戻ることが許されない、そんな癒されぬ子供。
考えごとをしながら外を眺めている彼をそっと見ていると、いつの日か見せたあのあどけない表情が浮かんでは、朧げに消えた。
 
「大分、良くなったみたいだね」
彼が家と反対へ歩いていくのを見て、またついていった。今度は堂々とついていった。
例の茂みに着くと、そこには元気そうになった山雀がいた。前と比べて少しふくよかにさえなっている。
「ええ。本当に良かったです」
彼は固そうな殻の木の実を山雀の前に置いた。
「ねえ、これをちょっと見て下さい」
言われるままにして様子を見ていると、孔明がそっと木の実をつついた。そうして手を引っ込めると、今度は山雀がその実をつついた。
「すごくないですか」
「え」
少し興奮気味にこちらを振り向いた孔明に戸惑いながら、一体何が起こったのだと聞いた。
「この子、ちゃんと芸をするのです。こちらが二回木の実を叩いたら、この子も二回叩きます。三回叩いたら、ちゃんと三回叩くのです」
「それはすごいな」
「何回がいいですか」
「え・・・と、それなら・・・、五回はどうかな」
そう言うと孔明は木の実をゆっくり五回つついた。いつもより数が多いのか山雀はちょっと首を傾げて考えるようにしてから、確実にちゃんと五回木の実をつついた。
「ほら」
無事に成功した喜びからから、満面の笑みで孔明はこちらを振り向いた。
「ちゃんとしたでしょう」
その表情に、名状しがたい何かが自分の中で沸き起った。思わず嬉しそうな彼の頭を撫でてしまった。いつもなら身体に触れられるのすら嫌がる孔明だったが、今は山雀の芸が成功したことに興奮しているのか素直にされるがままだった。
「ずっと仕込んでたのか。すごいな」
「良かったです。どうせなら、元直にも見せたいと思って」
無邪気にそう言う彼が、どうしようもなく、愛おしかった。
「でも」
少し顔を曇らせた孔明は言葉を続けた。
「もう、本当は怪我はもう治っているはずなんです」
「山に、帰すのか」
「・・・でも、帰らないんです。自分が、懐かせるようなことをしてしまったから・・・」
「家で飼う、というのは考えていないのか」
「考えましたが・・・。でも、やはり野の生き物は、野にこそ幸せがあるのでは、と思い・・・」
「自分がどこにいれば幸せかは、自分で決めるさ」
「・・・」
「帰すのは、この子が帰りたい時でいいんじゃないか」
そう慰めてまた頭を撫でた。どこか納得しきれていない表情で、孔明はしかしその場は素直に頷いた。
本当に少しずつではあるが、孔明は自分に懐いてくるようになった。こちらが声を掛けなくても、いつの間にか隣の席に座っていることがあった。だからと言って何かを話す訳ではないのだが、気が付くと傍にいた。時々顔色が悪く「最近あまり寝ていないだろう。もう少し寝た方がいい」と言えば、前はあからさまに嫌そうな顔をしたのに、今は素直に頷くのだった。
自分が冗談を言うと、それに対して冗談で返してくる時もあり、笑った孔明は、本当にあどけなかった。よく強がりを言い、歳上の自分にも負けまいといつも意地を張ってはいるが、どこかまだ子供っぽさが抜けなかった。
そしていつしか彼の姿を、横顔を、笑顔を見る度に、愛おしく感じることが隠せなくなってきた。ずっと見ていたい。そして、ずっと見ていてほしい。
そう思っている時にふと、自分は彼に一体何を望んでいるのだろう、と思った。
自分は一体、何を考えている。
一体、何を求めているのだ。
自分が何を考えているかも知らずに、今日も孔明は自分に向かって朗らかに、笑った。
 
孔明が泣いていた。
どうしたんだ、と聞けば山雀が死んでしまったのだと言う。
あんなに元気だったじゃないかと返すと、野良猫に食べられてしまったのだと、声を出して泣いた。
肩を抱いて頭を撫でながら泣きじゃくる彼をなだめた。彼が泣く姿を自分は初めて見た。
抱きしめていると少しずつ落ち着いたのか、しゃくる回数が減ってきた。身体を離して表情を伺うと目元を真っ赤にしてこちらを見つめてきた。
胸が締めつけられた。
「落ち着いたか」
そう聞いた自分の声は、震えていなかったか。
自分の腕の中で頷いた彼は、またこちらを見て掠れた声で「元直」と呟いた。
気が付くと自分は彼の口に自分のものを重ねていた。無垢で柔らかいその唇に、思わず彼を抱きしめる腕に力が入った。離すと戸惑った彼の顔がそこにあった。大人ぶってはいるが、まだ本当は無邪気で何も知らないままの彼は、今起きたことに驚いていた。そのあどけなさが逆に自分を苛立たせる気がして、今度は少し乱暴に口を吸った。抵抗する腕を封じ込め、さらに口づけを深くしていくと「やめて」と口づけの合間に漏れてきて、はっとした。自分は何をしてしまったのだろう。口を離すと僅かに怯えている彼がいて、しかしそれすらもどこか色っぽく見えてしまった己の欲を恥じた。
 
気が付くと朝だった。
思わず周りを見渡すと薄い布団がはね除けられて脇でぐしゃぐしゃになっていた。荒屋の隙間から朝陽が覗いていた。自分ひとりしか住んでいない家に、他に誰かいるはずもなかった。人を呼ぶことも滅多にないのだ。
身体を動かそうとして、寝違えたのか痛みを覚えた。そこまでしてやっと、あれは夢だったのだと気がついた。
そうすると今度は妙にあの濡れた目元が思い出されてしまい、それをかき消す為に顔でも洗おうと寝所を出ようとして自分の腹が濡れていることに気が付いた。今度こそ大きな溜息が出てしまい、しばらくその場から動けなくなった。本当に、情けなかった。
それから教室で彼を見る度に夢での光景が思い出されて、居たたまれなくなった。どうにか悟られないように装うのだが、やはりぎこちないのか彼も訝しんだが、まさか事の真相まで分かる筈もなく「どうせ、なにか考えごとでもしているのだろう」と変わり者同士の妙な知ったかで済まされてしまったが、それはこちらとしても大いに好都合であった。
しかし、日に日に頭に纏わりつく妄想はひどくなっていった。彼が俯いた時に見えるうなじの後れ毛に夜を想像してしまい、漏れる溜息に全身が緊張した。こちらを見る目は、あの時見た光景を思い出させて、視線がその口元に吸い寄せられる。僅かに開いたその唇から見える薄紅色の舌に、思わず震えた。自分は一体何を考えているのだと、自分に怒鳴ってやりたい位だったが、それ以上に彼の一挙手一投足が心を騒がせて、それどころではなかった。
彼は女性と夜を過ごしたことがあるのだろうか。もし、そうであったら一体どのような姿を見せるのだろう。女性を組み敷く彼を想像していると、いつの間にか彼が自分になっていて、女性が彼になっていた。そこまで至ってから、ああ、自分は本当に救いようがないところまできてしまっていると、ただただやるせない嘆息しか出ないのであった。
 
その日は珍しく孔明と、最近親しくなったこれまた変わり者の崔州平と彼の家で飲み明かしていた。酒の席にはまず姿を表さない孔明だったが、自分がいれば時々出向いてくることがあった。この三人で燠を囲みながら談義をすることがあった。それには一人で住んでいる崔州平の家か、自分の家がよく使われた。
痩せた鶏肉と三つ葉を入れただけの塩粥と蕪の漬け物をつつきながら酒を酌み交わし、様々な話題に華が咲いた。過去の賢人達から兵法、法学、治世治水、そしてこの沈静化しつつある乱世の世情。どこの誰が天下を取りそうだ、誰がそれを邪魔しそうだ、等と話せば毎回決着は見えず終いには一人が酔いつぶれてうずくまり、誰かがそれに続いて横になり、最後の人間がもう寝るのか、まだ夜は浅いぞなどと身体を揺すりながらいつの間にか自身も覆い被さるようにして寝ているのが常だった。その日も、まさにそうであった。
まずは崔州平が最初に潰れた。それを酔っぱらった孔明が「もう寝るのか、だらしがないな」と言いながら彼自身も大分箸使いが怪しくなっていた。それから二人で飲み続けたが、ついに孔明も横になってしまった。
「孔明」
身体を揺すると、煩そうに手を払ってきた。こいつ生意気に、と力が抜けて殊更重くなった身体を引き起こすとだらりとこちらへ寄りかかってきた。骨が溶けてしまったのではないか、という程にしっかりしない身体をぐらんぐらんと揺さぶると顔をしかめながら大きく息を吐いてみせた。
それは、いつかの夢を思い出させる程に、どこか扇情的ですらあり。
「孔明」
思わずその顎を掴んで引き寄せた。
元直、と面倒くさそうに呟いた彼の唇を、吸った。
「ん」
漏れた彼の声に、驚くほど気持ちが揺れた。思わず、深く深く、味わうように口付ける。舌先も、頭も、痺れて、痛い。
口を離すと、微かに糸が引いた。その濡れた口元を指で拭うと、寝ぼけたような目でこちらを見てきた。恐らく何が起こったのかも、分かっていないのだろう。この男は、そうやって無垢なまま、こちらの気持ちを乱して。どこまでも、いつまでも。
それならば気が付くまで口付けてやろうか、とどこか自棄になった時、崔州平が寝返りを打った。驚いて思わず頭が冴えた。
今、自分は何をしようとした。
もしこの場に崔州平がいなければ、自分は彼に一体何をしようとした。
考え出すと、口から呻き声が滲み出た。
震える手で眠たそうな孔明の目をそっと閉じてやり、そのまま横に寝かせた。傍にあった盃に残る酒を燠にひっかけて火を消してから自分も横になった。大きく吐いた溜息は酒臭く、虚しい気持ちがより一層増した。

 

「一緒に、来てくれませんか」
孔明は講義が終ると、そう言った。
いいよ、と答えると、ありがとうと呟いた。
あれからも孔明は山雀の元へ行っていたらしいのだが、ついに山に帰すことを決意したようだった。
もうすっかり元気になった山雀は、孔明が行くと明るく鳴いてみせた。すっかり懐いてしまっている。
孔明はその小さな頭を優しく撫でてから「今まで本当にありがとう」と呟いた。いつもと少し様子が違う孔明に何かを感じたのか、鳴くのを止めて彼の様子をみるように首を傾げる。
「君はもう元気だ。山に帰れるだろう。あれから私も考えた。家で飼おうか。でも、そうすれば君は安全かも知れないが、本当の友と遊ぶことなく、家族を作ることなく、いつかは鳥だということも忘れてしまう。それは、本当にいいことなのだろうか」
どうしたのだ、と孔明を見つめながら彼の指を啄んでみせた。
「私が、もっと早くに君を山に帰していれば良かったのだ。でも、できなくて・・・」
「孔明」
「私を待っていてくれる君が、可愛くて。すまない、私の都合で、君に中途半端な情をかけてしまった。後で辛くなるのは、お前だというのに」
「・・・」
孔明は山雀を手元に包んだまま立ち上がった。
「行きなさい。はじめは戸惑うかも知れないが、きっとすぐに慣れるから」
そう言って孔明は山雀を山に帰すように、しかし優しく放った。だが、すぐに戻ってきてしまった。
それは折り込み済みだったのか、孔明は何度も何度も戻ってくる山雀を優しく山へと放ち続けた。
黙って後ろから見ていると、不意に彼の手が止まった。どうしたのだろうと見遣ると、肩が僅かに震えていた。驚いて傍に寄る。
「孔明」
「元直」
「・・・」
「ああ、不必要な情なんて、かけなければ良かった・・・。飼ってもらえないのであれば、もっと前に見放してくれればよかったのにと、言っている」
「そんなわけ、あるか」
「最後まで見守るつもりがなければ、中途半端に優しくしないでくればよかったのにと」
「どうして」
どうして、そう思う。どうして、優しさをそういうふうに、思ってしまうんだ、お前は。
「お前は、優しさに責任を求め過ぎだ」
「・・・」
「本当は、もっと気軽なものでいい筈だ」
「でも、実際に覚悟のない優しさは、人を傷付ける」
そう言い放ち、孔明は今までより少し強く山雀を放った。そうするとさすがにもう戻ることは許されないと悟ったのか、何度か近くを旋回してから、山に姿を消していった。
「腕を引く気がないのならば、腕を差し出すべきではない」
静かに呟いた彼の真意を掴みかねて戸惑っているうちに、彼は背を向けてその場を去っていこうとした。
「孔明」
「見守ってくれて、ありがとう」
そう言って、今度こそ孔明は歩いていった。
どういうことだ。
お前は、一体どういう気持ちで、そう言うのだ。
お前に、何が分かるものか。
 
「覚悟のない優しさは、人を傷つける」
 
だったら、お前ならどうしていた。
お前だって、結局は山雀を山に帰したではないか。自分で引き取ることはせずに、その方が山雀の為になると言って。
どうして。
俺が、そう思っていないと。
言えるんだ。
どうすれば、お前の腕を引いて、どこかに行けると思う。
どうすれば、そんなことができると思う。
自分のように天涯孤独の身でない。お前には冴え渡る知性も、知識も、教養も、見識もある。自分のように後ろ暗い過去もない。そんなお前を、どうして自分のために腕を引いて連れて行けると、思っているんだ。
お前の為を考えさえしなければ、攫っていたさ。腕を引いて、人里離れたどこかに。二人なら農耕で、自給自足もできて不自由しない。人がいなければ、人目も気にしなくて済む。本当ならば。でも、できるはずもなかった。
お前が、本当に。
お前に、本当の、笑顔でいて欲しかったから。
それ以外に、何が、あると。
 
急に自分の出立が決まった。
劉表の食客兼護衛隊長の劉玄徳という人に仕えることとなったのだ。それは本当に面白い成り行きだとしか思えなかった。まさか自分のような前科持ちが出仕できるとも思っていなかったので、それは単純に嬉しかった。
あれから、どこか孔明と距離を取るようになってしまったが、それでもたまに酒を酌み交わしたり、談義を楽しんでいた。自分の出仕が決まったと報告した時には、これまた素直に驚いた顔をして「まだ貴方に、人に仕えようという気持ちが残っていたのですね」と嘯いたので、軽く肩を小突いておいた。
荷物を纏めてから、司馬徽先生含めてお世話になった方々へ挨拶に向かった。変わり者で周りから敬遠されていたとはいえ、長く住んでいればそれになりに付き合いはある。みな、自分の出立を喜んでくれた。ありがとう、ありがとうと何度も言いながら最後に町を出ようと馬を引きながら外れまで歩いて行くと、そこには一人で佇む諸葛孔明が、いた。
「お前には、塾でさよならを言ったろう」
「あれが、お別れですか」
「ああ。あっさりしていて、良かろう」
「あっさりしすぎでしょう」
そこまで言って、お互い黙ってしまった。少々乱暴な春風に目を細めながら、彼を見た。彼も、こちらを伺った。
「孔明」
「・・・」
「今、俺がお前の手を引いたら、お前は素直に来るか」
「・・・」
「やはり、来ないか」
「いいえ」
「いいえ、って」
「行く行かない、ではなく、貴方は、そうしないですよ」
「・・・」
「それが、元直です」
そう言った孔明の腕を思い切り引いた。掴まえるように抱き寄せて。強く。
「元直」
どうか。
ああ、どうか。
「貴方は・・・、本当に昔から、力だけは強くて」
どうか。
腕を緩めて顔を見ると、相手はこちらを見て苦笑した。
「でも、優しくて」
頬を拭われて、自分が泣いていることに気が付いた。
「だから・・・」
何かを言おうとして、孔明は言い継ぐんだ。首を緩く振る。
「いってらっしゃい。元直。いつまでも、元気で」
拭われた感触が、柔らかくて、痛い。
「お前もな」
「はい」
「良く寝て、良く食べるようにな」
そう言った自分を孔明は笑った。無邪気に。しかし、どこか寂しげに。
「口うるさい母上がいなくなって、私はせいせいします」
「俺は、手のかかる子供がいなくなって、せいせいするよ」
鞍の塩梅を確かめてから、馬に乗った。
砂埃で、顔をしかめる。
「・・・元気でな」
「貴方も」
馬の腹を蹴る。嘶きと共に走り出した馬を好きなようにさせて振り向かずにしばらく行くと、長年過ごした襄陽があっという間に遠くなった。
恐らく、もう戻ることもあるまい。
どうか。
元気で。
それだけを、願って。
そう心のなかで呟いてから、また馬腹を蹴った。
遠くで一声聞こえたのは、山雀だったか、違ったか。

 

 

 

おわり  

 

 

 

 

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