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笑う寒梅  

優しい手

完成した出師表を陳震の元へ持って行った。
それをしばらくの間読んでから、「これは、まあ、なんとも・・・」と呟いた。
読み終わった後、もう一度最初から読み返し、やはり「まあ、なんといいますか・・・」とまた呟いた。
「・・・北伐への、これが私の気持ちです」
「まさか、諸葛亮殿が四字美文を使われるとは・・・。時代ですかな」
「読んでいて、分かり易いように・・・」
「それにしても・・・悲しくなるほど、優しい檄文ですね。これは」

  

  

その日の丞相府は慌ただしかった。正式に出師表を奉ったので、その内容を見ようと多くの文官が尚書台につめかけた。出師表は同じ内容のものを二通作成して一通を陛下に、もう一通を尚書台に保管させていた。文官達はともかく、武将の中には字が読めない者もいるので後日全軍の前で同じ内容の事を口頭文で説明し直す必要があった。
今回の出師表には名指しで重用すべき文官や将の名前を載せたので、その内容に関しても文官達があれやこれやと囁いているのが分かった。また大なり小なりの波紋は出てくると思うが、その時々に対応していくしか無かった。

 

 

しばらくして、尚書台の文官が私に声を掛けて来た。
「丞相・・・。陛下がお呼びでございます」
「・・・分かりました。すぐに参ります」
これは、予想していた。本当は避けたかったのだが、やはりどうしようも無いのか。
すぐに玉座の間に向かうと、人払いがされていた。一人で座る陛下の手元には出師表が記された布軸が握られていた。その前に向かって平伏をする。
「どうか説明して欲しい」
「・・・」
「陳震がこれを私の元へ持ってきたぞ」
「尚書令でございますから・・・」
「録尚書事は孔明、そなたであろう・・・?なぜ録尚書事でもあり、丞相でもあるそなたが持って来ないのだ?」
「・・・」
「そして読んでみれば」
そう言って劉禅様は布軸をこちらの方へ投げてきた。
「先帝先帝と、父上の事ばかり引き合いに・・・。これは誰へ向けた上奏文なのだ?」
「・・・劉禅様にございます」
「ではなぜ、そなたが私へ直接語りかけて来ないのだ・・・?」
「・・・」
「孔明、これに」
さすがに何が行われるか分かってしまい、躊躇してしまう。
その様子を見て、もう一度恐ろしく穏やかな口調で「これに」と言われた。
ここで抵抗して大事になっても仕方が無いと自分に言い聞かせ、陛下の側へと歩み寄った。
「ここに」
そう言われて示されたのは陛下の膝であった。ここまで直接的な要求は今までに無かったので、やはりどうしても足がすぐには動かなかった。その様子を見て陛下は辛抱強く待つ事はせず、玉座から立ち上がり私の腕を強く掴んだ。もう片方の腕で腰を後ろから捕まれ、そのまま引きずり込まれる様に陛下の膝に座らされた。
「陛下」
いきなり袂を割られ、そこに触れられた。思わず身をよじるが、腰をしっかりと掴まれていて大して動けなかった。どうしても、陛下に対しては手を振り上げて抵抗する事が出来ない。その為、もはやこの時間は耐えるしか無い気がした。
「こちらを」
そう言われてぎこちなく振り返った。悲しい程に穏やかな目がそこにあった。
執拗に触れられて、思わず息が浅くなった。
「ほんとうに、良い顔をする」
そう言って笑われた。
「どうせなのだから、もっと声を出してくれないだろうか・・・」
そういって噛み締めている口に指を入れられてこじ開けられた。噛み付く訳にもいかないので、無理矢理開けられた口からは否応無しに声が漏れ出た。
「は・・・おやめ、下さい・・・」
「さて、どうしようか」
「本当に・・・、どうか」
「そうだ。こうしよう。孔明、父上の字で私の事を呼んで欲しい」
「な・・・」
「きっと、そなたもその方が楽しいだろう」
「おやめ下さい・・・あっ」
本当に酷な要求だった。どうして、そんな事が思い付くのか。そして、何故そこまで陛下が父である劉備殿をそのように扱うのか、理解が出来なかった。
「そしてこの指も、父劉備のものだと思えば、更に嬉しかろう」
「なぜ・・・」
「知っているからだ」
「何を・・・」
「そなたが、父上を想っていた事を」
「・・・」
「実際そなたと父上が関係にあったとは思わないし、そこはどうでもいいのだけど、私が許せないのは未だにそなたの中に父上が住んでいるという事だ。今の皇帝は私だと言うのに」
確かに劉備殿とは何もなかったし、その想い自体もなくは無かったが、ほんの淡いものだったと自分では思っていた。それは君主への尊敬の念なのかどうか、その境界線が曖昧になるほどの、淡い感情。言い方を変えれば厚い忠誠心とも言えるし、恋慕とも言えば言えなくも無い、その程度のものだった。その為、それを自分では一切外に出したつもりは無かった。
「分からないとでも思っていたのか。私はずっと幼い頃から父上もそなたも見てきた。私はな、その頃から今までずっとそなたに恋をしているのだ。だから、私はもっと報われても良いと思う」
「・・・」
「しかし、まあ、今となってはそれもどうでも良いのだ。なぜなら、これからずっと死ぬまで、そなたは私の為にあるのだから」
「・・・」
「孔明。どうか、私に示してはくれないだろうか。今その忠誠心は私の為にあると」
ずっとゆるくこすられているそこを、ふとはじくようにいじられた。
「や・・・」
「玄徳様と、そう呼んでくれれば、終わらせてやらぬでもないぞ」
「・・・っ」
「それとも、そなたはずっとこうされていたいのだろうか」
既にその時、意志であるとか理性であるとか、そういったものは殆ど自分からは抜けていた。これ以上、どうすれば良いというのだろう。
「...ん、あっ・・・げ、玄徳様・・・」
「・・・ほんとうに、良い顔をするのだな・・・」
あまりのことに、気がつくと涙が流れていた。それを見て、
「いいものだ」
と、穏やかに笑っていた。

 

 

例えようの無い疲労が全身を覆っていたが、どうしても眠れる気がしなかった。遅くまで執務室で書簡の編纂などをしてから、更に丞相府の部屋で読む為の書簡をいくつか持って下がってきた。
夜着に着替え、冠を落としてから寝台に座りながら書簡を読んでいた。
そこに、ちいさく扉を叩く音がした。こんな時間に誰だろうと思い、一瞬馬謖の事が頭をよぎった。躊躇しながらそれでも一応いらえは返した。
「・・・遅くに、ごめんね。・・・いいかな?」
馬岱殿だった。
「その、今日、ちょっと遠くから見かけた時に、とても疲れていたような気がして・・・。それに、他の人に聞いたら今日も遅くまで執務室にいたって聞いてさ・・・」
「・・・心配して、いらしてくださったのですか・・・?」
「あ、うん・・・。俺も趙雲殿達と夕餉を一緒にしてたら遅くなっちゃって、まあ、そのついでって訳じゃないだけどさ。・・・入っても、大丈夫?」
「・・・はい」
馬岱殿は寝台に広げられたいくつかの書簡を見て、近づいてきた。
「あーあ・・・、まだ執務してるの?もう、今日は寝れば・・・?」
「・・・眠れる気がしませんので・・・」
その言葉を聞いた馬岱が、突然身につけている装飾品や長袍を落とし始めた。一体何を、と思って見ていると内袍だけの身軽な格好になった馬岱は寝台に広げてあった書簡を全部持っていってしまった。机にそれらを置いた後、まだ私の手にひとつ書簡が残っていたのに気付き、それも慌てて取っていった。書簡を読む為に部屋全体に点けていた灯りも殆ど消して回った。
そして、こちらの許可を取る事無く、勝手に寝台に上がってきた。
「寝るよ。おいで」
「・・・はあ」
その展開に付いていけなくて、思わず間抜けな声を出してしまった。
そんな私の肩をそっと寝台に倒すようにしてきた。馬岱殿自身も一緒に横になる。
私の顔を覗きこみながら、馬岱殿はこちらの額や頭をそっと撫でてきた。
「こうしてたら、そのうち眠くなるかも」
「・・・」
「あ、いやね、俺が小さい頃、夜眠れない時に、よく母がこうしてくれたなあって・・・」
「お母様が・・・?」
「うん。もう、いないけどね」
「・・・」
「・・・色々あったなあ。もう、殆ど思い出すこともないんだけど・・・。でも時々、未だに夢に見るんだ」
「・・・何を、でしょう・・・」
「・・・若とのこととか、家族とか、・・・みんなが、殺されちゃった時のこと、とか・・・」
「・・・」
「何度夢に見ても、見ても、薄くならない・・・、遠く、ならないんだよね・・・」
ちょうど、馬岱殿の表情は影になっていてよく見えなかった。このまま、そのように辛い話を続けさせてよいものか、迷った。
「みんなが殺される前に、髠刑になって、あれは誰のだったのだろう・・・、切られた髻が俺の前に放られて、夢中で逃げたんだ・・・。あれは、本当に、恐かった・・・。未だに夢の中で足が震えるんだ・・・」
「・・・」
余りにも酷い話だった。そこで思い出したのは、彼がいつか自分が持って来た李と書簡を作る時に使う糸束を見て、とっさに手を引いた時の事だ。あの時の表情は余りにも逼迫していた。虫だと思ったと、とぼけてみせてはいたが、あれは過去の惨い記憶と合わさって幻覚を見てしまった為だったのだ。自分なんかが想像出来るような苦しさや恐ろしさでは無い筈だった。それでも、それらを併せ呑んで何故、このように強く生きられるのか。
「・・・ああ、ごめんね!寝る前なのに、何だか嫌な話をしちゃったねえ・・・。でも聞いてくれて、ありがとう」
そうか、きっと、吐き出したかったのかも知れない。それであれば、話を遮らなくて良かったと、少し安堵した。
強く、優しく、朗らかな彼を見ていて、ふと季常を思い出した。
顔つきなどは全く似ていないのだが、その逞しい佇まいというか、雰囲気というのか、人柄か。
しかし、思い出してみて想像以上に季常の顔が遠い事に気が付いた。四年という歳月は、様々なものを変えていくのだと、痛感した。
まだ、ゆっくりと私の頭を撫でてくれるその温かい手つきに、無条件に何かが癒される気がした。
「ふふふ。・・・いつ見ても、キレイだねえ」
軽い冗談のような口調で馬岱殿が言った。
何も深い事を聞かない彼の態度は、心底助かった。陛下の事も馬謖の事も、もし深く聞かれたとしても到底答えられる内容では無かった。それらの事象は複雑に執務と絡んでいる為に、打ち明けて何かが解決する事は無く、余計に物事を煩雑にしてしまうだけだった。それであれば、何も聞かれず、全てを忘れられるこうした時間が、本当に貴重だった。
「・・・そう言えば」
「ん?」
「・・・そもそも、どうして私、なのでしょうか・・・?」
気になってはいたのだが、聞く機会を得ずに今日まできてしまっていた。
「・・・聞きたい?」
「・・・ええ」
頭を撫でていた優しい手が額を触り、そっと鼻筋をなぞっていった。
そうだなあ、確かあの時は・・・、と言って馬岱殿は言葉を紡ぎ出していった。

 

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