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笑う寒梅  

溜息の中に

本当に、穏やかな口づけで、そうされているという事にも気付かない程の。

 

 
涙を指でそっと拭われた。
座ったままの私を見つめた彼は、泣きたそうな顔でかすかな息をついた。
私は、何をどうすれば良いのか分からなくなってしまって、動く事が出来なかった。
明らかに相手も戸惑っていた。
もう一度こちらに口づけようとして、一旦止めて、それでも俯いて吐息を漏らしてから、口を重ねてきた。
あまりにも優し過ぎるそれに、抵抗する気すら起きなかった。
お互いの唇どうしが触れ合って、また離れてから、顎にふわりと手を添えられた。
ほんの少しだけその指に力を入れて、こちらの口元を小さく開き、柔らかい舌が申し訳無さそうに入れられてきた。
穏やかなその舌は、こちらを気遣うかのように情深く、そして先ほど涙を拭ってくれた指のように優しく、優しく触れてきた。それはもう、堪え難い程の慈しみに思えた。

 

 

何故、と思う。

 

 

「君の事が、好きだからだよ」

 

 

そう言われても、何故その意味が私に理解出来るでしょう。
何故、ここまで優しい口づけが出来るでしょうか。
どうして、貴方がそんなに悲しい顔を、しているのですか・・・。

 

 

完全な静謐の後に、唇を離して、こちらを見つめがら私の額の後れ毛をひそやかに撫で付けた。
ふるえる溜息をついてから、ふと背を向けて、そのまま彼は部屋を出て行った。

 

 

「じょ、丞相」
朝議に出ないといけないので、足早に廊下を歩いていた私を見つけた馬謖が側に寄って来た。
「目元が・・・。どうされたのですか・・・」
馬謖の方を見ないで返答した。
「香油を触った手で、思わず目をこすってしまっただけです。それより、皆は集まっていますか?」
「・・・はい。集まっております」
「先日依頼した戸籍の見直しは全て揃っていますね?」
「はい・・・」
私の歩みに付いて来ながら答えた馬謖は、突然こちらの腕を掴んだ。思わず立ち止まって彼を見る。
「ごまかさないで下さい」
「・・・何をです」
「なにか、なにかありましたよね・・・?」
「何もありません」
「いえ、絶対に何かあった」
「馬謖、いいかげんにしなさい。特例朝議の前ですよ」
「そうやって貴方が怒る時は、何か隠したい事がある時だと・・・そんな事すら知らない私だと、思っていらっしゃるのですか?」
「・・・」
「分かりました。馬岱殿に聞いてきます」
「待ちなさい」
今度は私が馬謖の腕を掴んだ。
「書簡は全て用意しました。書記も本日は私ではありません。行きますね」
「待ちなさいと言っているでしょう」
「丞相はこのまま朝議に出席して下さい。皆が待っているのですから」
「貴方も朝議に出席なさい」
「必要がない筈です」
「貴方は参軍でしょう」
「ついこの間、その任は解かれているはずです。南中の後に」
「それは書類上の問題です。実質的に役はそのままでしょう!」
思わず声を荒げた様子を近くで見ていた文官達が何事かと集まり出した。私は人前で大声を出す事は滅多にないので、珍しさ半分恐さ半分というかたちで文官達がこちらの様子を伺っていた。
その中の一人に言った。
「馬謖を朝議の場へ。本日は殊に重要な朝議ですから、終わるまで一切部屋を出ないよう見ていてるように」
無理矢理朝議へ出させて、そのまま見張っていろという意味不明な命令に、戸惑いながらも言われた文官は歩み出て来て、馬謖の腕を掴んだ。だが馬謖は動こうとしない。その様子に困った文官がこちらを見てきた。
「もう一人」
近くにいた別の文官を呼んだ。
「二人で連れて行きなさい」
困惑しながら文官二人で馬謖を連れて行こうとした。それでもまだ抵抗する馬謖を見て、
「もう、一人」
更に別の文官を指して、強引に連れて行かせた。

 

 

朝議は異様な雰囲気に包まれていた。
三人がかりで連れて来られた馬謖。そのままそれを囲う様に立っている文官達。そして、私の険しい顔と厳しい声音を聞いて、皆が皆、息をするのも憚られるように緊張しているのがよく分かった。
朝議自体は通常通り全て滞り無く行われた。朝議が終わった後、類に見ない風景であったのにも関わらず誰も何も聞いて来なかった。直近の配下である陳震や李厳さえ、何か私に声をかけるのを躊躇って何も言わないまま退出して行った。
「馬謖は残るように」
そう言って、見張らせていた文官三人を下がらせた。
馬謖の予想外の反応に、このまま放っていく訳にはいかなくなってしまった。どのような結果になったとしても、一度突き詰めて馬謖と話す必要がありそうだった。

 

 

「まず、貴方が私に聞きたい事を簡潔に言いなさい」
二人きりになった大部屋で、まず私はそう切り出した。
「・・・何が、あったのですか?」
「何もありません」
「なぜ、泣いていらっしゃったのですか?」
「泣いていませんし、目が腫れた理由は先ほど言ったとおりです」
「・・・その目は、香油でこすって腫れたような目ではありません。どうして、どうして隠されるのですか?」
「まわりくどいですね。はじめに伝えた筈です。貴方が気になっている事を簡潔に聞くようにと」
「・・・馬岱殿が、その、なにか丞相に、したのでは、と・・・」
「何も」
「でも、それでは納得出来ません」
「・・・残念な事に、貴方には交渉事が向いていないようですね・・・」
「・・・」
「以上ですか?」
そう言って切り上げようとした私に馬謖が言った。
「では、最後に、もうひとつだけ宜しいですか?」
「・・・ひとつだけであれば」
「馬岱殿との間には、何も無かったのですよね?」
「何も、という言葉の定義が、貴方にとって何を示すのかが分かりませんが、私が個人的に考える定義で言えば、何もありませんでした」
「では、丞相の言う、何も無いとは、どういう状況を指すのですか?」
「やはり、貴方は交渉事に向いていないようです。既に、一問は過ぎたのですよ。最後に札を切るのであれば、完全に致命的なものを選ばなくてはならなかったのに」
「致命的な質問が、あったかのようですね」
「単なる交渉術の例え話です」
「・・・では、今回の事は、・・・これで分かりました。ありがとうございました。ですから、他の話はしても宜しいですか?」
「・・・かまいません」
「知っているんです。陛下の事」
馬謖がまっすぐにこちらを見てきた。それは刺すような目だった。
「知っているんです。陛下が、丞相に、いつも、何をされているかという事を」
「意を得ませんね」
そうしらばっくれつつも、動揺が酷かった。まさか、どこかで何かを見られていたのだろうか。確かに、その可能性は完全には否定出来なくとも、簡単に露見するような事ではなかった筈なのに。
「曖昧過ぎて、ゆさぶりにもなりません」
そう言い捨てた私に馬謖が席を立って向かって来た。思わず身構えた私の襟を強く掴み、反対の手は後頭部を捕らえてそのまま後ろ髪を引いて来た。思わず顔を上げてしまう。それを見計らったように馬謖が口づけてきた。食い尽くされそうな勢いで求めてくる。その激しさに恐ろしくなり、力の限り抵抗した。何とか手を外させようとするのだが、襟を掴んでいた方の手で右手を握られ、左手もその腕で上から乗せてくるように押さえつけられた。何とか足だけでもと動かそうとすると、それを察したのか、椅子ごと相手の方を向けさせられ、そのまま彼の片膝がこちらの腿に乗ってきた。重さで骨が当たり、その痛みに思わず眉をしかめる。
「これでも、ゆさぶりになりませんか」
長く執拗な口づけの合間に、そう呟いてきた。何か返そうと口を開きかけたその時、また口づけられて、そこから舌が入ってきた。後頭部に寄せられていた手が口元に伸びてきて、親指を中に入れて口をこじ開けさせられた。逃げても逃げても追ってくる舌に翻弄されて、軽い目眩がしてきた。飲み込めない唾が口から零れていく。あまりにも長い時間そうされていた気がする。零れたそれが流れて首筋を濡らしていった。
「貴方の事は、荊州の頃から・・・見ていました」
口を離して、今度は零れた筋をなぞるように舌で撫でられいく。思わず漏れる息が震えた。
「兄上に笑いかける貴方を見て、どうしてそれが自分じゃないのかと、何度も、思いました」
首の付け根を強く吸われた。
「・・・っ」
「いつか、言いましたよね。兄上によく似ていると」
「・・・あ」
「だったら、私にも、そうして下さいよ・・・」
「・・・」
「分からないでしょうけれど、時々、貴方の事を思うと・・・気が狂いそうになる・・・」
そう言ってから私の目を見つめてきた。
兄に似た目元で、それ以上見ないで欲しかった。
「こんな思いをするのならば・・・生き残りたくなんて、無かった」
そう呟いたあと、私を離し、何も言わずにそのまま部屋を出て行った。

 

 

・・・誰か教えてくれるのであれば、私がどうすれば良かったのか、どうか教えて欲しい。
どうすれば、良かったのか。
何をすれば良かったのか。何をしてはいけなかったのか。
誰か、教えて欲しい。

 

 

 

 

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