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笑う寒梅  

香りの先に

しまった。
今日は早朝軍議だったのを忘れていた!
昨日は色々とありすぎて夜中まであーだこーだ考えていて中々眠れなかった。いつの間にか、うとうとして少しは寝れたが、起きたら既に日は上がっていた。急がないと早朝軍議には間に合わない。
急いで身支度を済ませ、丞相府へとすっ飛んだ。

 

 

「おや、馬岱殿。珍しく早い出仕ですな」
尚書令の陳震がいくつかの書簡を抱えながらこちらを見ていた。
「あー、陳震どのー!間に合ったー!今からですか、軍議は?」
「・・・軍議?」
「うん。・・・あれ?」
「・・・」
「今日じゃ無かったっけ?早朝軍議・・・」
「・・・ああ!その早朝軍議は明日ですよ。今日は特例朝議です。我ら文官どもの」
「え、明日!?」
「あはは。間違われたのですね。ああ、それでしたらひとつお願いしたい事が」
「はあ・・・。なんでしょー・・・」
「実は諸葛亮殿が丞相府の部屋に昨日お泊まりなので、一応声を掛けてきてもらって宜しいですか?まあ、まず大丈夫だとは思うのですが、昨晩も遅かったようですし念の為に」

 

 

丞相府の奥には諸葛亮殿が休む為の小さな部屋がある。遅くなった日や翌日早い日はそこで夜を過ごす事が多い。近頃は私邸に戻る日が少しずつ減っているような気がするとぼやいていたのは誰だったろう・・・。
扉の前に立つ。中から人が動く気配は感じられなかった。もしかしたら本当にまだ寝ているのかも知れない。音がしないように扉をそっと開けて、足音すら一切立てずに中に入った。
部屋の奥に寝台があった。まだ寝ているのかな、と思ってそちらを見ると意外な姿があって身体が驚きのあまり固まってしまった。
寝台には寝ている諸葛亮殿と馬謖殿がいた。ただ、馬謖殿は起きていて、あろうことか諸葛亮殿の額に手を添えてその目蓋に口付けを落としていた。
あまりにびっくりして息を飲んでしまった。その気配に馬謖殿が気付いた。
「・・・!馬岱殿!?」
「・・・お、おはようございます・・・。今日もよい天気で・・・」
成都は基本的に毎日曇りなのでよい天気もくそもないのだが、思わずそう言ってしまった。だって西涼に居た頃は毎日よい天気だったんだもの。
・・・それにしても、なぜこうも俺は気まずい場面にばかり出くわすのだとその運の悪さを呪った。
馬謖殿の声でまどろみから覚めたのか、諸葛亮殿が僅かに声を出して目をこすった。
「・・・幼常。先に起きていたのですね・・・」
「あ、孔明様・・・」
「おはよう。昨日は・・・眠れましたか?」
「は、はい・・・」 
馬謖殿はこちらを気まずそうに向いた。
それにつられて諸葛亮殿もこちらを見た。しばらくぼんやりと俺を見た後、唐突に身体を起こした。
「馬岱殿?ああ、なんていうことでしょう。寝過ごしてしまった・・・。幼常、先に起きていたのなら何故」
「あ、いや!その、俺は今日間違って早く来ちゃって、陳震殿に様子を見て来て欲しいと言われたから、来ただけで・・・。だから、寝過ごしてないから!大丈夫!」
「・・・え?」
混乱している諸葛亮殿にもう一度同じ説明をした。
「ああ、そういう事でしたか・・・」
そう言って諸葛亮殿は窓の外を見た。先ほどと比べて日は大分上がっている。
「ただ、やはり少し寝過ごしたようです。すぐに支度をしましょう」
「あ、それなら、俺、なんか手伝えることがあれば・・・」
「いえ、孔明様の支度は私がやります」
「幼常、そう言っていないで、貴方は部屋に戻ってすぐに自分の身支度をしなさい。私より早く行って陳震の手伝いを」
「・・・承知致しました」
衣服と火が消えた手持ちの燭台を持って馬謖は部屋を出て行った。その際にちらりと睨まれたような気がするのは気のせいだろうか・・・。
諸葛亮殿が手早く寝着から長袍に袖を通していた。寝台の側にある棚から櫛や油、髪紐などの道具一式を持ってきて「髪は結えますか?」と聞いて来た。
よく若の髪を結っていたのでそれに頷いた。
腰掛けた諸葛亮殿の後ろに回って髪を櫛で梳かし始めた。ひんやりと冷たい髪で、流れるように美しかった。確かに、これは手で梳いたりして遊びたくなってしまうなあとついつい思ってしまった。少しだけ油を手に付けて素早く髪を纏めていく。
「これ・・・いい匂いがするんだね・・・」
「え・・・?ああ、桂油ですか。桂皮から採った油なんです。良い香りですよね」
正直、髪を結いながら軽い目眩がした。もし、もし抱きしめた時にこの匂いがしたらやばいと思う。なんか、まずいやばさだと思う。ていうか、なんて事を考えてるんだ、俺は。いかんいかん。気を逸らす為に何か雑談でもしないと。黙っているのはやばい。
「でも、諸葛亮殿が香油を使うなんてねえ・・・」
「ああ・・・、私も昔は使っていなかったのですが、前に・・・季常がくれましてね。それがとても良い香りだったので、今でも見つけては取り寄せて、使っているのです」
「・・・」
諸葛亮殿の義兄弟、馬良殿。
同じ陣営で良く見かけて話した事もあるけれど結局武将と文官であった上に、よく使者として外に出ていた印象が強く、自分とは深い面識も無いまま亡くなられてしまった。
「馬良殿とは、そこまで話をした事なくて・・・。明るいひとだってことは、聞いてたけど...」
「そう、ですね。よく笑う人でした」
髪の毛の一部を頭頂部で纏めて紐で結わいて髻を作っていく。後ろからでは諸葛亮殿の表情は見えなかった。
「そして、本当に真摯と言いますか、真面目な人でした。そのひたむきさ故に、外へ出て異民族を帰順させるという難しい役が出来る人物でした。皆が、彼の話を最後は聞いてしまうのです。始めはどんなにかたくなな人達でも、季常が熱心に説得をすると皆、思わず耳を貸してしまうのです。そうしたら、あとは季常の思惑通りに話は進んでしまうのです。そういう、不思議な魅力を持つ人でした」
饒舌に話す諸葛亮殿に少し驚いた。こんなに、口数が多い人だっただろうか。
「そういえば、いくつ下だったっけ?」
「六です。六歳下でした。私から見れば、弟のようなものです・・・」
「ちなみに、馬謖殿は、いくつ下だっけ・・・?」
「九つです。それも、既に季常が亡くなった歳をついこの間、越したばかりです」
出来た髻が崩れないように、被せた冠の上から髪挿しを入れてしっかりと固定して冠の形を手で整えた。
「出来たよー」
手に付いた香油を髪を結う道具と一緒にあった布で拭いながら諸葛亮殿の肩を軽く叩いた。
「これ、さっきのところに置いておけばいいの?」
櫛や香油の瓶を手に取りながら聞いたのだが返答が無い。
「諸葛亮殿?」
見ると、座ったまま俯いていた。
「どこか、痛い、の?」
そう聞きながら顔を覗いてみた。
諸葛亮殿は声無く泣いていたのだ。
あまりにも急な事に、どうすれば良いのか、どのような言葉をかければ良いのか検討がつかなかった。そもそも、突然泣き出した理由も曖昧である。馬良殿の事を、思い出してしまったのだろうか・・・?
おろおろしているうちに、諸葛亮殿が小さく呟いた。
「昨晩、同衾した幼常が・・・馬謖が、自分が死ねば良かったなどと・・・」
呟いているうちに、嗚咽が漏れ出してきた。
「そう、口にして、泣いたものですから・・・」
その表情を見ていると、どうしようもない気持ちがわいてきてしまって、思わず背中から諸葛亮殿を抱きしめてしまった。すすり泣く身体の震えが腕から伝わってきた。そして、今しがた自分で塗った桂油の匂いも。
「若い者達に、そのような思いをさせてしまう、私は一体何なのでしょう・・・?」
「諸葛亮殿」
「季常が死んだのは、私の、この私のせいなのです・・・」
「ちがうでしょ・・・!」
「違いません!そもそも関羽殿が孫権の裏切りに合った事も、荊州を失った事も、憤った劉備殿を制止出来なかったのも、結果、夷陵に季常を送ってしまったのは、紛れも無い、軍師である、私のせいだというのに・・・!」
「ちがう、そうじゃない・・・!」
「責任者は・・・この国の責任者は、私なのです!」
「もう!人の話聞きなよ!!」
思わず大きな声を出してしまった。その予想以上の大きさに驚いた諸葛亮殿が、やっとこちらを向いた。その表情は泣きはらした少女のように、か弱く、か細く、儚く見えた。嗚咽と一緒に吐き出す息に、その唇が小さく震えていた。人ひとりの肩に一体どれだけのものを乗せれば、気が済むのか。
「確かに、君は軍師だし、色々と責任があると思うけど、関羽殿の事や、劉備殿を止められなかった事は、君ひとりのせいじゃない」
「孫権の裏切りを、見抜けなかった」
「あれは、身内の裏切りもあったし、そこまで考えたら戦略練れないでしょ、さすがにさ。第一そういうのは前線が本当は気付くべきだったの。じゃないとさ、じゃあ、じゃあ君は、全ての前線に行って逐一監視しないといけない訳?そんなことできないでしょ」
「・・・劉備殿を止められなかった」
「止められるわけないじゃない。あの劉備殿が行くって言ったら行くんだから。頑固なんだからさ、あの人。言ったらきかないんだから。草鞋売ってた人が最後は皇帝になったんだよ?そんだけすごい人なのよ?他人の話をほいほい聞くわけないじゃん。ましてや、あんだけ大切にしてた自分の義兄弟二人も亡くしてるっていうのにさ」
「・・・」
「なに、まだ何かあるの?無駄だからね。何言ってきても、全部俺が否定するからね」
「・・・」
「・・・だから、ねえ・・・もう、お願いだから、自分を、責めないであげてよ・・・」
「・・・難しいです・・・」
「じゃあ、自分を責めたくなったら、いつでも俺に言ってくれればいいよ。そうしたら、右から左まで全部きれいに否定してあげるから」
「・・・どうして、そこまで」

 

 

一瞬、言うか躊躇ったけど。

 

 

「君の事が、好きだからだよ」

 

 

 

 

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