top of page

笑う寒梅  

撫でる涙

その理由は分からないが、先ほど馬岱殿が言っていた事は明らかに嘘だと分かった。


 

受け答えがしどろもどろだったからではない。
まず、書庫に保管している書簡には必ずそれぞれの印が付けてある。具体的には書刀などで小さく巻末に線を引いておき、その本数でどこの書庫に保管してあるかを示すのだ。これは文官達しか知らない事なので、馬岱殿が知らないのは頷ける。
ただ、それだけであれば「何らかの偶然で違う書庫に紛れていた」と解釈する事も可能だが、秘書監についての受け答えが致命的だった。
なぜなら、既に秘書監は二人いるのだ。その為、二人とも同時にその場を離れる事は無い。そして、その日その書庫に入った者の名前は全て記録に取ってあり、必ず私のところへ報告が上がってくる。恐らく今日上がってくる記録に馬岱殿の名前はあるまい。例え、この後都合あわせの為に行ったとしても、持ち出す書簡に関しても必ず記録を取るのでそこでも嘘が露呈する。何より、あの書庫の書簡の持ち出しは基本的に禁じられているのだ。気軽に入って書簡を持ってこられるような書庫ではない。
勿論「何も見ていない」という解釈も出来なくは無いが、そうすると書簡を持って来た書庫について偽る必要性が無い為、この推測も無理があるだろう。
「・・・なんということ・・・」
そうすると何故それを黙っているのか、という事になるが、現実的に考えると「見なかった事にしたい」という事だろう。普通であればそうだし、自分が逆の立場であってもそうしているだろう。
とりあえず、政敵に見られなくて良かったと胸を撫で下ろした。万が一自分を良く思っていない人物に見られた場合、その事実をどのように使って圧力をかけてくるか知れたものではない。当然、馬岱殿に関しても今後本当に自分を害さないか否かは完全に読み切れない所ではあるが、先ほどの反応を見ていると、すぐに何かが変わるというふうにも見えなかった。

 

 

しかし、そういう現実的な状況については割り切れるものではるが、あの現場を見られたと思うと感情としてはどうも落ち着かなかった。どこまで見ていたのだろう。そしていつから見ていたのだろう・・・。人事の話もしていたので、そこも実に聞かれたくない話ではあった。
ただ、それであれば、何故馬岱殿はわざわざあのような、書簡を私の元へ持って来たのだろう。
思わぬ場面を見たが為に、どのような様子でいるのだろうと興味本位で伺いに来たのだろうか。

 

 

陛下の寂しい眼差しと無理矢理に施されれた口付けの感触。
馬岱殿のどこか必死にこちらを笑わそうとする仕草。
どちらを思い出しても、どうにもいたたまれなくなるのだ。

 

 

考え事に捕われていると従者が執務室に入ってきた。
「丞相、そろそろ練兵視察のお時間ですが・・・」
「ああ、そう、でしたね。分かりました、今出ます」

 

 

調練場はいつもの様子だった。
まだ劉備殿や張飛殿がいた時は、これ以上にうるさかったというか、常に怒号が飛び交っていた気がする。関羽殿が指揮する軍の動きはまさに秀麗で、例え模擬戦であったとしても目にする度その動きの美しさに溜息が出たものだった。
勿論、現在でも趙雲殿の軍や魏延殿の軍の動きは流石に貫禄がある。
それに追いつこう追い抜こうとしているのがまだ若い馬謖や他の将達の部隊だった。
私に気がついたのか、趙雲殿が側に寄ってきた。
「これはこれは、軍師殿。ご足労ありがとうございます」
「そちらこそ」
簡単な挨拶をした後、趙雲殿がそっと耳打ちをして来た。
「軍師殿・・・。そろそろ出兵だと聞いたのですが・・・。現在、出師表を書かれているとか」
「それは・・・誰から聞いたのですか?」
「馬謖殿です。あ、勿論、みんなに言いふらしていた訳ではありませんよ。恐らく、私にだけだと思います」
「・・・そうですか」
「馬謖殿が随分心配していました。最近はどうも丞相が根を詰め過ぎていらっしゃると・・・」
「そういう訳ではないのですが・・・」
ふと馬謖の方を見た。ちょうど馬謖もこちらに気付いたらしく目があった。遠くから頭を下げて見せたので、こちらも軽く会釈を返した。
その様子を見て、趙雲殿が小さな溜息を付いた。
「・・・もう、四年になりますね」
「・・・そうですね」
「劉備殿が亡くなられた時の喪失感は今でも忘れられないが・・・、孔明殿は同時に義兄弟も亡くされて・・・」
「早いものです」
馬良の話を、久々に聞いた気がした。
荊州に駐屯していた頃に彼は弟の馬謖と一緒に劉備殿の元へ出仕してきた。その後、彼とは義兄弟の杯を交わしたのだった。劉備殿達の様な義兄弟とはまた様子が違うのだが、話が合い、政治の事や戦の事、それ以外にも他愛もない事をよく話して、多くの時間を共にした。大いに笑う、真面目で優しい男だった。私に手紙を寄越す際には、必ず文面で「尊兄」と呼んでくれたものだった。
「恐らく、馬謖殿は馬良殿の分まで軍師殿の支えになろうと、必死なのだと思います・・・」
「それは、私も感じているところではあります。むしろ、そうした事でいつか無理をしたり、何か大きな失敗をしないかと、時々不安になります・・・」
「軍師殿が側で見守っていらっしゃるのです。きっと、大丈夫ですよ」
「・・・そう、だといいですが・・・」
本当に無理をなさらないようにと、こちらを気遣ってから趙雲殿は練兵に戻っていた。
それと交代のようにこちらに来たのは馬謖だった。
「丞相」
「ご苦労様です、馬謖」
そう言ったこちらの指をちらりと目で追うのが分かった。ただ、私は何も言わなかった。
「丞相・・・」
「どうしました?」
「本日は同衾をお願いして宜しいでしょうか?戦術の事でご教授お願いしたい件がありまして・・・」
「ああ、勿論構いませんよ。本日は私邸に戻らず丞相府の部屋で休む予定ですから、そちらにいらっしゃい」
「分かりました。有り難うございます」
拱手の礼をして、嬉しそうに馬謖は調練に戻っていった。
ふと、視線を感じた気がして頭を巡らせると、今度は馬岱殿と目があった。
ただ、先ほどの事が頭をよぎってしまい、相手が会釈をしてくる前に思わず目を背けてしまったのだった。

 

 

夜も更けた頃、寝着に着替えて冠も外し、執務室から持って来たいくつかの書簡を部屋で読んでいた。
そこに灯りと寝着を持った馬謖が入ってきた。既に気安い間柄であるので特に挨拶もせず、そのまま書簡を読んでいた。
「丞相」
「・・・」
「丞相」
「ああ、もう寝台に行きますか?」
「え、ええ。そうですね・・・。丞相、気が付きませんでしたか?」
「・・・何にです?」
「部屋の灯りがひとつ消えておりますよ」
そう言われて部屋に置いてある燭台を見渡すと、確かにひとつ消えていた。その為に、いつもより部屋が少し暗かった。
「ああ・・・、そうですね」
「こんな中で読まれると、身体に良くないと言いますから・・・。本当に、考え事をされると周りが見えなくなってしまうと言いますか・・・」
馬謖はたまにこういう小言を私に言うのだった。やれやれと息をついて、これはさっさと寝台へ向かった方が良さそうだと思った。
そんな私の様子を見て、馬謖は持って来た灯りを寝台の側に置いてから、他の灯りを全て消して回った。その後手早く寝着に着替えて冠を外した。
寝台ではお互いの顔が僅かに見える位の明るさである。寝台に座りながら馬謖からの質問にひとつひとつ答えていった。こうして話をしている際に良く思い出されるのは、劉備殿の臨終の一言であった。

 

 

「馬謖を、重用するでないぞ・・・。あやつは、どうも口先だけの時があるようだから・・・」

 

 

確かに、まだ未熟さはある。しかしこうして話していると、やはり才覚は際立っている気がする。質問も受け答えも流暢で澱みがない。あと、足りないものは実践だろうか・・・。

「丞相・・・。孔明様」
「どうしましたか?」
「今日の・・・指の傷はいかがですか?」
「あ、ああ・・・。ほら、ご覧なさい。まだ強く握ったりは出来ませんが、既に血は止まっておりますよ」
見せた指をそっと持ち、灯りに照らすようにして傷口を確認して、ひとつ息をついた。
「良かったです」
「心配する程の事ではありません」
「・・・孔明様」
「なんでしょう?」
聞いたこちらの身体を急に抱きしめられて、そのまま馬謖の身体に倒れ込んでしまった。
すると昼間の劉禅様の行いが思い出され、思わず必死に逃げようとしてしまった。だが、馬謖は武将でもあるから力では到底敵う筈が無い。強い男の腕の感触と、その匂いに気持ちが焦った。無意識的に身体全体に力を入れて強ばらせる。歯を噛み締めて顎にも力が入ってしまう。それを、更に強く抱きしめてきた。
「・・・孔明様。時々、とても不安になるのです」
「・・・」
「あの兄上が、居なくなってしまって、私だけで本当に孔明様をお守り出来るのだろうかと・・・」
「・・・幼常」
「兄上は、いつも私に言いました。もしもの事があったら、お前が全身全霊を賭して孔明をお守りせよと」
「季常が、そんな事を・・・」
そしてふと私の身体を離し、こちらを見つめてきた。
こうして見ると、本当に目元が季常に似ていた。
いつだっただろうか、自分をどうか義兄弟にして欲しいと私に言ってきたのは。あれは、季常が亡くなる前だっただろうか、後だっただろうか・・・。あの頃は本当に様々な事があり過ぎて多くの記憶が曖昧だった。

 

 

「義兄弟の契りは、気安く結べるものではありません。それこそ、貴方の兄上への不敬となります」

 

 

そのような事を言って断ったのだった。
「幼常・・・。既に、貴方は季常の歳を抜いたのです。そこに誇りを持って、堂々としていなさい」
「本当は、私が・・・私が死ねば良かったのです。私が死地へ行けば良かったのだ。そうすれば、孔明様は兄上を」
「何を言いだすのです。貴方らしくもありません・・・」
「まだ、若かった。兄上・・・」
はらはらと泣き出した馬謖の頬をそっと拭った。そうすると、何か気持ちのたがが外れてしまったのか、今度は声を出して泣き出した。
「貴方は、貴方でいいのですから・・・。ほら、今日はもう寝ましょう」
泣き止まない馬謖をそっと横に倒して、子供をあやす様にその額を優しく撫でてやった。そうすると、少しずつ落ち着いてきたのか、しゃくりあげる回数が減ってきた。
自分も横になり、馬謖の様子を伺うと、子供のようにこちらへ身を寄せてきた。いつもはお互い頭を逆にして寝る事が多いのだが、今日はこのまま並んで寝る事にした。小さくしゃくりながら、顔を下に伏せてこちらの胸元にすり寄ってくる。その頭を撫でてからそっと言った。
「おやすみ。幼常・・・」

 

 

​ 

 

次話へ

bottom of page