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笑う寒梅  

絡む薄い絹糸

いつからだったろうか。

劉禅様があのような悪ふざけを始められたのは。

 

​ 

今に始まった事ではないのだが、二人で話をしている最中に手を出された事は一度や二度では無かった。一体いつからあのような悪戯をするようになったのだろうか。陛下が幼い頃は趙雲殿や馬超殿、そして私に良く懐いていた気がする。逆に、劉備殿や関羽殿、張飛殿には意外と近づかなかった気もする。気のせいなのかも知れないが。

 

 

「丞相」

 

 

もしや誰彼にでもあのような振舞いをしているのだろうか。そうなると由々しき問題ではある。今度、接点が多い文官などにそれとなる探りを入れておいた方がいい気がした。自分でさえあの癖には困惑しているのだ。他の者達であれば更に動揺しているに違いない。

 

 

「孔明様?」
「え・・・?」

 

 

肩を掴まれた。
見てみると馬謖である。

 

 

「何か」
「何か、ではございません。その軸・・・」

指された方向を見ると、自分が草案をしたためようとしていた布軸であった。ただ、考え事に没頭していたためか筆が途中で止まっていて墨の染みが大きく出来てしまっていた。これではごまかす事も出来まい。
「ああ・・・」
「・・・お疲れでございますか?」
「いえ・・・考え事に気を取られて・・・」
「もうこれは仕方ございませんので、後でここだけ切り取って職人に装丁をし直させます」
「手間を、かけますね・・・」
馬謖は私の前にある布軸を引き払い、手早く巻いてから近くの従者に渡していた。
その代わりに新しい布軸を持って来て目の前に広げた。皺を手でざっとならしてから文鎮をそっと置く。無言のまま「どうぞ」と言っているような仕草で整えてくれた馬謖に目配せで「ありがとう」と伝えた。
水が入った小さな瓶に筆を浸してから墨につけた。筆先を丁寧に硯の上で整えて、再度布軸に向かった。途中までは先ほど書いていた内容をなぞるだけであるので難なく書けたのだが、それから先が進まなかった。書こうとして止めて、再度内容を頭の中で整理をしながら書こうとして、やはり止まった。
これは、実は陛下に対しての上奏文の草案である。
何度も何度も詳細を詰めて考えた筈だったのに、やはりあれも入れた方が良いだろうか、無いほうが良いだろうか、もっと伝わり易い表現は無いだろうかと考えているうちに手が止まってしまうのだ。
そうしているうちに、否応が無しに先ほどの陛下の振舞いが思い出された。
いつから、あそこまで力が強くなったのだろう。
昔からよく膝に乗ったり抱きついてくる子供ではあったのだが、悪戯をしようとするならばそっと手を握って「いけませんよ」と言えばそれで済んだのだった。
それがいつからか力では敵わなくなっていた。そのことが劉禅様に知られてしまってからであろうか。ああいう振舞いをよくするようになったのは。

 

 

「丞相」

 

 

普段から二人になった際には気を付けているのだが、常にああいう事をして来る訳ではないので、ふと気が緩む瞬間がある。そういった時をわざと狙っているのでは無いだろうか、と思ってしまう気さえする。
そして、自分を見る目であったり自分に触っているその様であったり色々とあるのだが、ふと気付いて陛下を見ると背筋がひやりとする時がある。
なぜなら。
その双眸の悲しさに。その表情の寂しさに。

 

 

「孔明様!」
「え?」

 

 

呼ばれてはっとした。
何と言う事だ。馬謖が整えてくれた布軸にまた大きな墨の染みを作ってしまっていたのだ。

「丞相、もう、本日はお止めになられた方が宜しいのでは・・・」
「いえ、草案ですから。竹簡を」
「丞相」
「それと書刀もお願いします」
側で馬謖がひとつ息をついた。こうなると端から何を言っても無駄だと感じたのだろう。再度布軸を下げてから今度は竹簡を机に広げてくれた。これであれば万が一筆を誤っても書刀で削れば済む話である。草案が完成してから布軸に清書すれば良い。
また硯の上で筆先を整えて既に固まっている冒頭だけでもと書き出し始めた。
しかし、何故か墨が竹に滲んだ。訝りながら書刀でその部分を削ろうとしたのだが。
「・・・っ」
力が入りすぎてしまって、誤って自分の指先を切ってしまった。
ぽたりぽたりと竹簡に血がしたたり落ちる。思った以上に深く切ってしまったようだ。
「丞相!大丈夫ですか?」
「ええ・・・」
血が滲む竹簡。
「・・・恐らく、この書簡、まだ竹が乾ききっていなかったのでしょう」
「申し訳ございませんでした」
「構いません」
「それに・・・、この書刀も少し研ぎ過ぎてあるようです」
「たまたま、職人が不慣れであったのでしょう」
「大変申し訳ございませんでした」
「こういう日は、何をやってもうまくいかないのかも知れませんね。確かに、先ほど幼常が言った様に止めておけば良かった。忠告してくれたのに・・・」
「いえ、こちらの不手際です。誠に申し訳ございません」
馬謖は汚れた竹簡を従者に持たせ、職人にきつく言っておくよう指導していた。
慌てて従者が執務室を出て行く。
その場には自分と馬謖だけが残された。
まだ血が止まらなかった。指の付け根を強く抑えているのだが、傷は深かったようだ。
それを見ていた馬謖が「失礼致します」と言って、唐突に私の指を手に取った。
何を、と言いかけてつい息を飲んだ。
躊躇いも無く馬謖は血で汚れた私の指を口に含んだのだ。
親切心でそういう風にしてくれていると分かっていても、どうも落ち着かなかった。
馬謖の口に含まれた自分の指が、彼の舌で舐められているのが良く分かった。舌の表でその傷に触れられ、舌の裏でも撫でられた。指先を吸う様にしてから口を離して少しの間指を眺めていた。まだ血が少し滲んでくるようで、再度馬謖は指を口に含んだ。また舌先で指をくすぐられる。気が付くといつの間にか指の根元まで口に入れられていて、指の腹から付け根まで舐められた時には流石に手を引きかけた。
「もう、いいですから、幼常・・・」
私の言葉を聞いて、馬謖はこちらを見ながら指先をかすかに音を立てて吸った。それから舌を出しながらゆっくりと舐めた。
その様子を見て少し怖いと思ってしまったのは、自分が今、神経過敏になっているせいであろうか。
「一応、大分血は止まったと思いますので、あとは布を巻きましょう」
「いえ、もう、大丈夫ですよ。布をしっかり巻いしまうと傷口が乾燥しませんし、これ位の傷であれば放っておいても大丈夫です・・・」
「しかし」
「もう、大丈夫ですから」
馬謖はどうも納得がいっていない様子であった。
「それでしたら、どうか本日はもうお休み下さいませ。先ほどからのご様子を拝見させていただきますと、ご自身で思われている以上にお疲れだと・・・」
「先ほどは考え事に捕われていただけです。疲れている訳ではありません」
「丞相」
「もう、下がりなさい。馬謖」
「丞相・・・孔明様。何を、何に捕われていたのですか?必要であれば、この幼常がその心配の種を取り除いて参ります故」
それを聞いて思わず溜息が出てしまった。
「考え過ぎるのは止めなさい。この草案の事で悩んでいただけです」
「・・・なぜ、この草案にそこまで・・・。単なる」
そこまで言って馬謖は思わず口をつぐんだ。
「・・・失礼致しました。口が、過ぎたようです・・・」
「・・・咎めません。ですから、もう本日は下がりなさい・・・」
馬謖は拱手の礼を取ってから執務室を去っていった。
扉が閉まる音を聞くと、ひとりになった気安さからか言いようの無い疲労感が襲ってきた。
曹魏との国力の違い。徴税の調整。兵糧の確保。蜀錦の生産。国内の厭戦気分の払拭。誰を重用し誰を抑えるのか。考えなければならない事は無限にあった。
溜息をつこうとして、その事にすら幾ばくかの寂寥感を感じて、止めた。

 

 

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