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笑う寒梅  

その息は窓辺に潜みて



若と一緒に劉備殿に帰順してから随分経った気がする。

その頃、若も俺も多くの事があって大分参っていた時だった。親族もみな殺されて、戦いの連続で、特に若は酷い怪我続きの頃だったから端から見ていても「きてるなあ」というのはよく分かった。それを表に出さないように努めている事も知っていた。
そんな若も数年前に亡くなってしまったし、劉備殿もその翌年に亡くなってしまった。皇帝になってからまだ二年だった。
初めて劉備殿を見たときは「こういう顔をする人が、まだこの乱世にいたんだ」と思った。どことなく、この時代にそぐわないような、どこか違う時代からひょいと遊びに来ているような、そんな特別感を感じた。飄々としていて、笑う時は大きく笑い、良く酒も呑んで、悲しい時はとことん悲しむ。そういう人だった。
だから、関羽殿と張飛殿の時は本当に大騒ぎだった。そして、劉備殿の中で何かが少しずつ崩れていって、夷陵での大敗の後、白帝城で静かに息をひきとった。
この人になら最期までついて行きたい。そう思える人だった。だから先にいかれた時は、若が亡くなった時とはまた違った喪失感があった。
劉備殿と初めて会った際には、もうひとつ驚いた事があった。
劉備殿の少し後ろに控えていた軍師である。降伏している最中なのに、この人を見て暢気にも「美人だなあ」と感心してしまった事は今でも思えている。
客観的に見れば、劉備殿の陣営には趙雲殿みたいな「いい男」はいたし、女性だって美人揃いだったけれど、俺は諸葛亮殿に目を奪われた。まあ、これは完全に俺の趣味だったよね。前から黒髪の長い人には弱いから。あと、あの神経質な目元とかも、好みなんだよねえ。
とは言え、帰順先の軍師殿に惚れたとしても、それを臆面も無く出すほど意外と俺もそこまで吹っ切れていないし、まあ心に秘めた片思いという事でしばらくは楽しんでおこうと気軽に考えていた。とかいいつつ、時々口説き文句を言いについつい執務室へ行っちゃったりしちゃうんだけどね。でも、それだって冗談半分な雰囲気で言ってるし、お遊びみたいなものだからさ。こうすれば出仕も嬉しくなるからね。楽しく生きるうえでのコツってものだよね。

 

 

そうして何年かが過ぎて、新しい皇帝に劉禅様が即位された。
その頃は比較的静かに時間は流れていった。しかしそれは夷陵での大敗の傷も大きく、次の戦への準備に注力していたからで、派手な動きは無かったけれど南中を平定するために遠征をしたりと忙しかった時期ではあった。
そんな中、俺にとってお気に入りの場所があった。
書庫である。しかも出来るだけ古い書庫。新しい書簡が保管してある場所は文官達の出入りが多いためにいても落ち着かないのだが、もうあまり使わない書簡を置いてある書庫は人も来なくて一人になるには最適だった。
また、そこにある書簡を眺めるのが好きだった。特に人が書いた字を見るのが好きだったのだ。
見ていると、いろんな人が書いた書簡が出てきて面白かった。
劉備殿の字は、どこか癖があって、でものびのびと書いている事が分かる字だった。払い、止めも意外と豪快で見ていて気持ちがよくなる字だ。張飛殿の字はそれよりももっと豪快というか、自由奔放なのだがどこか優しい字でもあった。関羽殿の字はとても流麗でお手本にしたい位だった。
劉禅様の書簡も少しだが混じっていた。これは、何も癖が無い字で、どこか無機質というか整ってはいるのだけど、親御さんとは随分真逆の字だなあと感じた。
そして諸葛亮殿の字は、ご期待に漏れず「神経質そうな字」であった。関羽殿や劉禅様に比べると実はそこまで整っている字では無いのだが、丁寧に書いている事はよく分かった。そしてどこか線が細く、読み易くはあるが先人達のような豪快さは全く無かった。
字ひとつとってもこれだけ人によって違うのだ。その字面を眺めているだけでも大いに楽しかった。

 

 

その日も昼餉が終わった後の空き時間を使って書庫に籠っていた。劉備殿が書いた兵法についての意見書みたいなものを見つけ、これが読んでいて面白かったので今日はその続きを読みに来ていたのだ。
そうすると書庫の扉が開いて誰かが入ってくる気配がした。と言っても、いくら普段は人気が無い書庫だといえどもたまに文官達が入って来ては書簡を探したり、置いていったりとするので、その時も特に気にしていなかった。そのまま劉備殿の兵法について目を通していく。
しばらくして、ふと違和感に気付いた。
通常、この書庫に入ってくる文官は大概一人で入ってくる。その為に話し声等は当然聞こえないのだが、今日は誰かと誰かが話をしているような気配があった。ただ、それ自体もそこまでおかしい事では無かったので気付いてからも放っておいたが、思いのほか話し声が長く続くので一体誰だろうと興味本位でそっと見てみた。
話をしているのは諸葛亮殿と、何と劉禅様だった。
わざわざ二人がこんな人気が無い所で話をするなんて、当然他の人に聞かれたくない話をしているに違い無い。
ただ、姿を出すには少し遅過ぎた。しばらくこの場にいてしまったのだ。話の内容は聞いていないとは言え、そう言って信じてもられるとは到底思えなかった。そうなれば後は静かにこの時間が終わるのを待つだけである。
ただ、一度知ってしまったからには、聞かないようにしようとしても否応無しに話している内容が耳に入ってきてしまった。
二人は書庫の中にある、狭い中庭に面した窓辺に膝を突き合わせる様にして腰を掛けていた。そこには書簡を仕舞う壷がいくつかあり、その上に簡素な板を載せて胡床代わりにしてあったものだ。文官達や自分みたいな人間がそこに腰掛けながら書簡の中身を確認するのに使っていた場所だ。
「陛下、あの者達の話は真に受けないで下さいませ」
二人とも声がとても小さいので全てが聞こえる訳ではないのだが、どうやら諸葛亮殿が劉禅様に対して人事面で色々と忠告をしているらしかった。
それを真面目に聞いているのかいないのか、劉禅様は微笑みながらずっと諸葛亮殿を見ていた。
しかし・・・これでは今後も諸葛亮殿の気苦労も絶えないだろうねえ、とぼんやり思いながら何となしに書簡棚の隙間からその様子を伺っていた。
諸葛亮殿の忠告話に飽きてきたのか、劉禅様はふと諸葛亮殿に手を伸ばして、その髪を梳きだした。
「陛下」
「真面目に聞いておる。続きを」
そう言いながら諸葛亮殿の長い髪を梳いたり、少し持ち上げて手の中から零してみたり、指に巻き付けてみたりと、何と言うか、やりたい放題だった。
恐らく溜息をつきたいのだろうが、それを飲み込んで諸葛亮殿は話を続けた。俯き加減で話している彼に劉禅様が間髪入れずに言った。
「孔明。私の目を見よ」
「・・・」
「そなたの眼は美しい。だから、それを見ながらであればそなたの話も良く聞こえる気がするぞ」
それにはついに諸葛亮殿も小さく溜息をついたのが見えた。劉禅様は相変わらず微笑んだままだ。
仕方なく劉禅様の目を見ながら諸葛亮殿は話を続けていった。少しすると今度は劉禅様が諸葛亮殿の頬や口元に触るようになっていった。
その様子にはさすがにちょっと自分も驚いてしまって、これ以上目にすべきかどうか戸惑っていると、ついに諸葛亮殿も我慢の限界という感じであった。
そっと劉禅様の手を掴んで自分から離させた。
「陛下、どうもお話を聞いて頂けないようですね。貴重なお時間を頂いておりましたのに申し訳ございません。本日はこれまでに致しましょう」
そう告げて立とうとした諸葛亮殿の腕を劉禅様が唐突に引き寄せた。
まさに腰を上げた瞬間だったので、身体の重心を崩されてそのまま劉禅様に倒れ込んだ。
長身を小さな腕で強く抱き込み、手を諸葛亮殿の後頭部に差し込んで髪を引っ張った。髪を引かれた痛みで思わず面をあげたその唇を食いつくように吸っているのが見えた。
二人分の重さを受けて、板が軋む音も聞こえた。
なんとか身体を離そうともがくが、意外な事に劉禅様の方が力が強いらしい。必死に抵抗しているのは分かるのだが全く敵っていなかった。
執拗に口付けは続けられた。
角度を変えて、何度も何度も吸われている内に、僅かにくぐもった吐息が漏れだしてきた。
「ん・・・はっ、あ」
隠れている身のこちらとしてはもはやそのいたたまれなさに耐えきれなくなってきて、思わず耳を塞ぎかけた瞬間、唐突に劉禅様が諸葛亮殿を離した。
急に拘束から解放された為に反動で床に投げ出された諸葛亮殿を見て、小さく呟いた。
「どうして、私ではいけないのだ・・・」
その言葉にはじかれたように顔を上げた諸葛亮殿を見る事もなく、劉禅様はさっさと書庫を出て行ってしまった。
あまりの状況に戸惑いを越えて、正直怖い気持ちすらわき上がってきた。
そっと、諸葛亮殿の方を伺った。
しばらく床に座ったまま呆然としていたが、その後ゆっくりと立ち、磨かれた石の床を覗きながら冠や髪の乱れを直し始めた。
「なぜ・・・」
ぼんやりと何度も髪を手で梳きながら、ふと漏らしていた。
「あのようになってしまわれたのでしょう・・・」
そういって細く長く溜息を吐き出した。
いや、それは溜息ではなかった。僅かな、聞き取れるか取れないかの、嗚咽。
ひとすじ、ふたすじ、小さな涙を流したのち、袖で頬を拭ってからその袖で口元を隠して書庫を静かに出て行った。

 

 

あまりの事に、しばらくその後書庫から出られなかった。

長い間姿をくらましていたせいで、ついに部下が自分を捜して書庫に顔を見せるまで出られなかった。足が動かなかったからだ。
「馬岱殿。書簡好きも構いませんが、そろそろ調練に出ませんと・・・」
「あ、ああ。そうだね。・・・いや、なに、ついつい面白くて夢中になっちゃったよ」
「はあ。ちなみに何を読まれていたのですか?」
「ああ、これこれ。これは、劉備殿の・・・」
そう口にして、ふと思い出される言葉があった。

 

 

「どうして、私ではいけないのだ・・・」

 

 

それは、同時に「ある誰かであったらなら、許された」という事でもある。
「へえ・・・。こんな書簡が残っているんですねえ。兵法書かあ。ちょっと見せて下さい」
「・・・」
「・・・馬岱殿?」
「あ、ああ・・・!うん、勿論いいよ!結構、面白くてさ、あはは」

 

 

劉禅様では駄目で、ではそれ以外に誰がいる?

 

 

「確かに、これ面白いですね。これなんて、普通の兵法書と逆の事を言っていますよ。やっぱり劉備様は違いますねえ」

  

 

そう、劉備殿しかいないのだ。

 

 

ふと、先ほどの涙を思い出した。
あれは、一体何を思っての涙だったのだろう。
どうして、本当は誰もいないような場所でも、あそこまで声を殺して泣かなくてはならなかったのだろう。
なぜ、貴方がそこまで辛そうな顔をしなければならないのだろう。
なにが、そうさせるのだろう。

書簡を読みながら暢気にはしゃぐ部下の声を聞きながら、先ほどまで二人がいた窓辺に目をやった。

そうだ。そういえば、今日も成都は鬱陶しい程の曇り空なのであった。

 

 

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