top of page

笑う寒梅  

李と糸と

本日も成都は曇りである。

自分の出仕はいつも早い。夜が明けきらぬうちから登城する事は珍しく無い。朝靄の柔らかい湿気に包まれながら、その日こなすべき事を頭の中で整理をしながら丞相府まで歩くのは好きである。
商人達や畑を耕す人達は、更に自分より早くに起きて動き出している時もある。皆、朝の白い霧に包まれて、何度見てもそれは美しかった。
今、市場には何が出回っているのか。物は足りているのか、値段は高騰していないか、一部の人間が利益を独占してはいないか。
そうした様々な事に注意を払いながら毎日丞相府へと向かうのだ。

 

 

そんな中、ふと目に留まったものがあった。
「・・・奇麗な李ですね」
「あ、お役人さん。いつもいつも早く出仕して、ご苦労様な事ですねえ、もう」
自分の身分の事は商人達に教えてはいない。ただ丞相府へ出仕している事と、身なりから「丞相府勤めの役人」と見ているらしかった。
「いえ、そちらこそ。すみません、まだ商いの準備中でしょうから・・・」
「そんな、構いませんよ。この李が宜しいんですか?」
「ありがとうございます。・・・では、三つほど」
「はいはい、三つですね」
「・・・こちらは筆記具なども揃えていらっしゃるのですか?」
李を簡素な布に包んでくれている商人の背後が目に入った。どうやら筆記具の商いも始めたらしい。
「そうなんですよ。ほら、お役人さんみたいに丞相府へ行く人が良く通るから」
「ああ・・・そうですか。あ、それでしたら、そこの」
「どれだい?」
「その右の、そう、それです。そちらもお願い致します」
「一緒に入れておくね」
「ありがとうございます」
少ししか買い物をしていないのにわざわざ布に包んでくれる所をみると「お得意様」として見られているのかも知れない。
しかし、筆記具も置いてくれるとなれば、ちょっとした小物が出仕ついでに買える訳である。成る程今後これは便利かもしれぬと思いながら丞相府へ向かった。

 

 

いつも通りの朝議が終わり、書簡を持って執務室へと下がった。
今朝片付けた書簡を背後の棚や壷に分けて仕舞いながら、次やるべき事を頭で考えていた。
そこへ、ひと鳴りのお伺い。だれかが執務室の扉を叩いているのだった。
いらえを返して扉を見ると、馬岱殿であった。
「何か?」
「いやあ、その、さっきの朝議で渡しそびれちゃいまして・・・あはは」
「そうですか」
馬岱殿はこうして時々提出するものを「忘れる」事がある。
それには理由があるのだ。
「それにしても・・・今日も諸葛亮殿はキレイだねえ」
周りに人が無くなると何故か馬岱殿はこうした類の事をよく私に言う。いつからかは既に忘れてしまったが、もう随分経った気がする。劉備殿が亡くなられてから、であっただろうか。
「馬岱殿の舌もキレイに回っているようで何よりです」
「いやだなあ、もう、真面目に言ってるのになあ」
「ええ、貴方が真面目である事は重々存じております。ついでにこれを馬謖に渡しておいて頂いて宜しいですか?」
そう言って書簡を手渡した。
「あー、はいはいっと。渡しておけばいいんですね。あーはいはいっと」
女性に対して言うような言葉を自分に言い続けるこの男を見ていて、ふと思った。
もしかして、近頃女性との接点が無さ過ぎて欲求不満になっているのだろうか。
・・・本当はもっと宴会などを開いて将達を慰労した方が良いのかも知れない。芸妓などを沢山呼んで。まさか、皆がそう思っている事を実は馬岱殿が代表して私へ遠回しに伝えにきているのだろうか・・・。
だとしたら、既に相当長い間その「要望」を無視し続けている事になる。
・・・だから最近馬謖などはどこか落ち着きが無いのだろうか・・・。そう言えば劉禅様もよく宴会をご所望されていたような・・・。
「諸葛亮殿?」
ついつい考え事に没頭してしまった私の肩を馬岱殿が叩いた。
「お疲れ、じゃない?へーき?」
「・・・ええ、大丈夫です」
「ふーん。ならいいけどさあ。・・・あ、これ李?キレイな色だねえ」
馬岱殿が執務机の上に置いてあった李に気が付いた。朝から何も食べていなかった為、朝議前に少し食べようと思って布を開いた所で誰かに呼ばれてそのままにしてあったのだ。
「私もそう思いまして・・・。もし宜しかったらいかがですか?」
「え、なんで?自分で食べるために持って来たんじゃないの?」
「そう思ったのですが、どうも食べる気がしませんので・・・」
「・・・」
そんな事言ってちゃダメだよー、とかそういう返しが来るかと想像していれば、そのまま馬岱殿は黙ってしまった。
そして、ふと布の方を見て「他も全部李なの?」と勝手に包みを開いてみせた。
次の瞬間。
「え?」
何が起きたのか分からなかった。理解するのに少し時間がかかってしまった。
なぜなら凄まじい勢いで馬岱殿がその布から手を払ったのだ。
その衝撃で李が床に飛んだ。
馬岱殿の行為の意味が全く分からずに、つい固まったままその様子を伺うと、思わずひやりとした。
見た事も無い、その表情。
何か恐ろしいものを見てしまったような、今にも泣きそうな、呻きそうな、そんな顔。
「・・・どう、されたの、ですか?」
「・・・え、ああ!ごめんよ!!李を落としてしまった・・・!」
「いえ、それはいいのですが・・・」
「あはは。いやあ、ちょっと恥ずかしいんだけどさあ、コレでっかい虫だと思ちゃって。俺、虫ってダメなのよー」
何の事であろうと布を覗いてみると、それは李と一緒に買った筆記具が入っていた。
その筆記具は綿を細く縒った黒染めの糸束だった。これは書簡を纏める時に使う糸で、通常であれば書簡を作る職人がいる為に本当は必要が無いのだが、細かく編纂をしなおしたり、書簡が痛んでしまった際には自分でさっさと直してしまう為、常備しているものであった。
しかし、これが本当に「虫」に見えたのだろうか・・・。虫にしては、いくら何でも大き過ぎないだろうか。
それに本当に虫に見えたとして、いくら苦手だからとはいえ、あのように切迫した表情をするものなのだろうか・・・。
「ああ、ホントにごめんねえ」と言いながら床に落ちた李を拾う馬岱殿はどこかいつもと違う人に、見えた気がした。







次話へ

bottom of page