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月を纏う人

確かに、昨晩寝る前に違和感は感じていたのだ。

 

 

朝、目が覚めると明らかに身体の様子がおかしかった。
重い。とにかく腕一本、指ですら動かすことが億劫で、しばらく寝台の上で何を考えるでもなく微かに届く鶏の声を聞いていた。
少し経てば身体も目が覚めてきて多少なりとも動くかも知れない。そのように期待をして呼吸を整えるように、じっとしていた。
そうしていると確かに身体の重さが和らいできた気がして、それに調子づいて寝台から起き上がってみた。

 

 

まずい。

  

  

立ったはいいが平衡感覚まで失われていたようで、まともに歩くことすら出来ず、どこかに手をつこうと壁に寄っていったつもりが自分の足を絡ませてそのまま床に突っ伏してしまった。
そこから立ち上がることが出来る訳もなく、年老いた家人が遅い主人を訝しんで部屋を覗き込んできた際に小さく叫び声をあげたのは言うまでもない。

 

  

支えられながら寝台へと連れて行かれ、問答無用で寝かしつけられた。
家人が丞相府へ連絡の便を飛ばし、急いで医者も呼んできた。手を引かれる様にして連れて来られた医者は、自分の額に手を置き、手首を掴んで脈を計り、背中や腹を触診した後に持ってきた道具一式の中からいくつかの薬草を選り分けながら言った。
「過労ですな」
「・・・過労?」
そう聞き返して、自分の声が大分掠れている事にはじめて気が付いた。頭も痛い気がするが、全身が痺れているような、ぼやけているような感じがしてよく分からなかった。
「季節の変わり目に、疲れが溜まっているとこのように熱が出たりするものですよ」
「・・・はあ」
自分では特に疲れている自覚はなかったのだけど。
「自分では中々気付きにくいものです、こういうものは」
いくつかの薬草を小鉢ですり潰しながら、己の心を見透かしたように医者はそう言った。
「今はよく寝て、出来るだけ食べて、用意する薬を忘れずに飲んで下さい。そうすればすぐに治りますよ」
まさか、自分が病で寝込むとは思っていなかった。
医者が帰った後、家人が拵えてくれた僅かに甘い白湯を飲むと少し喉の痛みが和らいだ。
薬も飲んだが、やはりひどくだるくてそのまま寝てしまった。

  

    

ふと目が覚めた。
外を見ると既に夜になっていた。月の光が部屋の中へ差し込んできている。虫の声はよく聞こえた。
あのまま一度も目が覚めずに自分は眠っていたようだ。やはり、疲れていたのだろうか。
そう考えているうちに、遠くで物音がした。普段は夕餉が終わると家人は帰してしまうのだが、今夜はまだ帰らずにいるらしかった。
少しすると密めきながらも慌てているような家人の声の他に、誰かの足音が聞こえてきた。
一体誰の足音だろうか。自邸の家人は既に老婆であるので、このようなしっかりとした大きな足音ではない。すぐに違う誰かだと気付いた。
部屋の前で足音が止まった。
そっと、扉が開けられた。
孔明だった。
思わず驚いて身体を起こそうとしたのを察知して、彼は急いでこちらに駆け寄ってきた。
「そのままで。どうか安静にしていて下さい」
そっと肩を押されて寝台に戻された。
どうしてここに、と聞こうとしたのだが寝起きであることも重なって声が出なかった。
「ごめんなさい。貴方が病だと聞いて驚いてしまって・・・。様子だけ見て帰ろうと思ったのですが、どうやら起こしてしまったようです」
持っていた小さな布包みを傍の台に置いてから、こちらの顔を見つめてきた。
月明かりが床に落ちていて、それに照らされた孔明は本当に美しかった。心配そうに寄せられた目元は、普段の冷静沈着な彼があまり見せないものであった。
心配しないで。
そう言おうとして、また声が出なかった。替わりに出てしまった咳を聞いて、彼はあたりを見回した。水差しを見つけると「飲みますか?」と聞いてきた。それに頷く。
孔明は水差しを持って寝台のふちに腰掛けた。水差しと布をそっと口元に持ってきて、ゆっくりと傾けてくれた。渇いた喉に水は甘く、染み入るように入っていった。一旦傾けるのを止めてから「まだ、飲みますか?」と聞いてきた。頷こうとした時にまた咳が出た。一度出ると止まらない咳に彼がうろたえた表情を見せた。どうしていいか分からないようで、こちらの口元を布で拭ってから額を優しく撫でてくれた。人より冷たい彼の手が今日は本当に気持ちがいい。笑って安心させてあげようとも思ったのだが、普段はまず見ることが出来ない慌てた様子の彼が存外に愛らしく、そう思うと何か気持ちの余裕というものが生まれてきて、一緒に悪戯心まで出てきてしまった。
この困った表情を、もっと見てみたい。今度はわざといくつか大きめの咳をしてみせた。
やはり孔明は慌てた表情を見せて咄嗟に自分で水差しをくわえて水を口に含んだ。そして身体を沈め、こちらの頭を両腕で包み込む様に口を落としてきた。ゆっくりと水がこちらに流し込まれる。大体水を喉に流した後も、彼は深く口づけを続けてきた。そこでやっと孔明がどういうつもりでそうしてきたのかを悟り、さすがにからかい過ぎたと反省した。
「・・・うつってしまう」
「うつして下さい」
「・・・本当は、大丈夫だから。君の困った顔が可愛過ぎて、わざと咳をしてしまったんだよ。ごめん」
「構いません」
「ダメだよ。俺はいいよ。君が病にでもかかってみなよ。それこそ丞相府は大騒ぎになっちゃうよ」
「私は大丈夫です。これでも丈夫ですから」
「俺もそう思っていたよ。・・・まったく。君が見舞いに来たせいで病がうつったら、ずっと陳震殿から小言を言われるハメになる」
その言葉に孔明は小さく声を上げて笑った。
「それは、間違いありませんね。陳震の小言はこちらが忘れていても続きますから、一度的にされると大変ですよ」
なんだかその様子が容易に想像出来て、自分もついつい笑ってしまった。それを見た彼がとても優しい眼差しで言った。
「そう言えば、今日はずっと眠っていたようですね。先程家人から聞きました」
「うん、気付いたらこの刻だったよ・・・」
「病には滋養が大事と言いますから、少しだけでも口にしませんか」
そう言って持ってきた包みを開けると、そこには柿があった。
「あまり食べられないかも知れないけど、もらおうかな」
その返答に彼は満足そうに頷いた。寝台に腰掛けたまま、布を自分の膝の上に広げてそこで一緒に持ってきた小刀で柿の皮を器用にむき始めた。
「・・・おどろいたねえ」
「隆中にいた時は均との男二人暮らしでしたからね。何でも出来るようになりますよ」
「へえ・・・。ちなみに炊事や縫製も出来るのかい」
「・・・出来ない事はありませんが、得意なのは薪割りとか土を耕すとか、そっちでしたかね」
「君が!?意外だね」
「まだ均が小さい頃は自分が炊事などもやっていましたが、いつからか鍋と杓子は均に取られていましたね。・・・まあ、味付けが大雑把だったのは自分でも認めますけれど」
「そうなんだー」
何だかその様子を想像すると面白くて思わず声を出して笑ってしまった。それにつられて、また咳が出た。
「もう。安静にしていて下さい」
「君が笑わせるから悪いんだよ」
「笑わせておりません」
そういってから、切り分けた柿を口元に持ってきてくれた。
「少し、だけでも」
「うん」
出来れば何も食べたく無かったが、わざわざ切って口元まで持ってきてくれたのだから、頑張って口に入れた。柿は瑞々しくて美味しかった。噛んで染み出た甘い汁は喉の痛みを和らげてくれた。
なんとか柿を飲み込んだ自分を見て、孔明はもうひとつ寄越してきた。それも頑張って食べた。
その様子を見ていた孔明はとても柔らかい表情をしてみせたので、それを見るためだけにも、頑張って更に数切れを口に入れた。その度に彼の表情が優しくなっていく気がして、それだけで今回病にかかった甲斐があったと不謹慎なことを思ってしまった。
結局、柿をひとつ食べ切ってしまったようで、その最後の一切れを孔明が寄越してくれた。食べ終わるまで添えてくれていたその細い指に目をやると、柿の汁で濡れていて月の明かりを纏ったそれは妖しく光って見えた。
思わずその手首を掴んで指を口に入れた。
孔明は反射的に手を引こうとしたが、それを許さずに一本一本清めていくように舐めていった。
「・・・その、もう、いいですからっ・・・」
それには何も答えず、更に手を引き寄せて執拗に舐め回した。
恥ずかしさのあまり孔明は思わず顔を背けた。こういう困っている様子が堪らなく愛おしい。これが見たいが為に、ついつい様々な悪戯をしてしまうのだった。
彼は手首が殊更弱いので、そこを唇で撫でたり軽く吸ったりしてみせれば、彼は聞こえるか否かの僅かな吐息を漏らした。
そんな彼の様子を見ていると、それだけではどうしても我慢が出来なくなってしまった。
何の前触れもなく孔明の腕を強く引いた。驚いた彼はなす術もなく俺の上に落ちてきた。
「な、なにを・・・っ」
「ごめん。多分、うつしちゃうと思うんだけど・・・もう、ダメだ」
頭をこちらに押さえつけるようにして唇を合わせた。戸惑うように開けられたその口の中へ舌を入れて相手のものに絡ませると、僅かに身じろぎをした。自分の身体に押し付けられる様にして動く体重の確かさがまた心地良かった。彼を全身で感じていられるこの安らかさが堪らなかった。
今度は首元を唇で撫でてから吸うと、それに合わせて微かに吐息を漏らしてみせた。
一度顔を離して頬をなぞりながらその表情を伺った。少し照れているような、しかし穏やかなそれを見ていると本当に、幸せだった。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、起こしてしまってすみません」
「ううん。嬉しかった。・・・うつったら、ごめんね」
そう言った自分に、孔明は自ら口づけてきた。普段彼から求めてくる事は余りないので、少し驚いた。
こちらの額を撫でながら、ゆっくりと静かに、慈しむ様に、絡まってくる彼。
そんな孔明を下から見ているなんてひどく新鮮で、少し胸が締めつけられた。
更に口からなぞるように首元へ落ちてきて、そっと舐めてくれた。そうされると、首が少し冷たくなって素直に気持ち良かった。
孔明がこちらの目を覗き込みながら囁いた。
「私が、したかっただけですから・・・。もしうつったら、私のせいですよ」
そんな健気なことを言ってくれる優しい彼は、表現のしようがないほど可愛かった。
「それに、もし私が病になったら、少しは休めるかも知れませんし」
と言って笑った。
「そうしたら、今度は俺が君を看病してあげるからね」
その言葉に満足そうに微笑んでからそっと俺の胸に顔を横たえた。静かに外を見ている君の顔に月の光が仄かに香って、それはもうよく似合った。
孔明の頭を撫でながら、ふたりでそのまましばらく虫の声を聞いていた。
そんな。
穏やかな、夜半が。

   

    

どうしようもなく、愛おしい。

  

  

    

   
おわり

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