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桃花は咲いているか

確か、若かりし頃こいつの号は「臥龍」だったか、と司馬懿は記憶を巡らせた。
未だ飛翔していない臥したる龍というのが本来の意味だが、この男、普段は大人しく見えるくせに、いざ押さえつけようとすると逆鱗に触れられた龍のように暴れ狂ってみせた。
まさに、手が付けられぬ龍そのもの。
司馬懿は寝台の上で気を失っている諸葛亮を見て、ひとつ息を吐いた。

 

 

抱く時は毎回薬を飲ませた。
そうでもしないと諸葛亮は力の限り抵抗をするので、話にならないからだ。
諸葛亮はいつか成都に帰る、と思っている様子だった。司馬懿から考えれば当然そうさせるつもりはなかった。政治的理由、私的理由含め死ぬまでここで飼い殺しにするつもりだった。
ただ、諸葛亮は成都に帰るその日まで己の精神を保つ為に抵抗を止めないように見えた。そうでもしないと気が狂いそうになるのだろう。しかし冷静に考えれば曹魏が陥落でもしない限り諸葛亮が成都に帰参出来る可能性はない。恐らく諸葛亮自身もどこかでそれに気付いているのかも知れなかった。ただ、それをまだ受け止めきれない、そんな様子であった。
いつか司馬懿は戯れで聞いた事がある。
「貴様、まさかまだ自分は成都に帰ることが出来るかも知れない、などとは思っていないだろうな」
その問いに、諸葛亮は力なく笑ってから答えた。
「まさか。そんなふうに思っていませんよ」
司馬懿を見るその目は澄みすぎていて、もはや憐れみを感じさせた。
「絶対に成都に帰る。そうとしか、思っていません」
これを聞いた際に、ああ、もしかしたらこいつは既に少し気が触れているのかも知れぬ、と司馬懿は嘆息したのだった。
近頃は薬を使いすぎている為か、諸葛亮は抱かれている最中に記憶が混濁するようになってきていた。特に興味はないので深く詮索はしていないがどうやら誰かと司馬懿を混同しているようだった。様子は抱く度に違った。随分と恥ずかしがる夜があったと思えば、照れながらも甘える日があったり、躊躇しながらも自ら求めてくる時もあった。当初は、薬を飲んでいる時の意識は微かにあったようだが、今ではそれすらもなくなり、抱かれている時は完全に素直になっていた。

 

   

その夜は月もなく、深い黒の中にあった。
燭台の明かりの下で、諸葛亮は微かに息を吐いて司馬懿の袖を強く掴んだ。震え出した身体を司馬懿は深く抱き寄せて、その首筋に口を落とした。そうすると諸葛亮は更に深く熱い息を漏らしてみせた。
「・・・んっ」
恥ずかしさからなのか、顔を背けるのは諸葛亮の癖だった。嫌がるのを知っていて司馬懿は顎を掴み自分の方を向かせた。そうすると、眉を寄せて掠れた声で「嫌です・・・」と呟いた。
「顔を見たい」
「あ・・・、いや」
強く身体をよがらせる諸葛亮の顎を掴んだまま、喘ぎ声を飲み込むようにしてその口を味わった。離す事が惜しくなる程、舌は甘かった。
暫くして、震えが止まった諸葛亮は力なく司馬懿の腕に身体を預けた。胸に頬を寄せて、無防備な顔を見せながら静かに息を繰り返した。
誰か気安い人物の側にいる時の諸葛亮は、こうも穏やかで柔らかい表情をするものなのだな、というのは司馬懿にとって新鮮だった。
時々気まぐれにその髪を手で梳いてやる時がある。その時も戯れのつもりで汗に濡れて絡まる髪を梳いてやった。そうすると諸葛亮が顔を上げて司馬懿を見た。何故と聞きたくなる程に、無垢な目だった。頬に手を添えてきて、ひとつ深く息を吐いたみせた。
「・・・どうした」
「いつも、ちゃんと言わないと、と思っているのですが・・・」
一体この男はいつも誰と自分を混同しているのだろうか、とぼんやり思いながら先を促してみた。
「何をだ。黙っていられては何も分からん」
答えるかわりに諸葛亮は静かに顔を寄せてきた。啄むような、慈しむようなそんな口づけの後、また司馬懿を見て、笑った。
それは、もう。
悲しくなる程、優しく。
何か許しを請いたくなる程、柔らかく。
そして信じ難い程、華やかに。
「いつも愛してくれて、ありがとう・・・」
思わず司馬懿は息を飲んだ。その擦れた音が、妙に大きく聞こえた気がした。
なんという、表情なのか。
今自分が息を吸っているのか、吐いているのかさえ分からないような、意識が混乱した錯覚に陥っていた。いや、それは錯覚なのだろうか。
表情を強張らせたまま動かなくなった司馬懿を不思議に思ったのか、諸葛亮は首をかしげながら手を肩にのせた。
「・・・どうしましたか。どこか、加減でも」
「触れるな」
司馬懿は思わずその手を振り払った。声が震えて僅かに上ずった。それをまた自分で認識してしまい、更に気が動転した。
「大丈夫、ですか」
いよいよ心配そうに覗き込んできた諸葛亮を、司馬懿は一喝した。
「こっちを見るな」
驚いて身体を固まらせた諸葛亮に、何故だがすまぬと謝ってから、司馬懿は自分の袍を乱暴に羽織った。その間に、やはり何故だかもう一度すまぬと呟いて、ますます司馬懿は自分の様子に動揺しながら足早に寝所を出て行った。

    

   

久方ぶりに見た諸葛亮は相変わらず反抗的な目をしていた。また薬を飲まされるのだろうと身構えていたが、その夜、司馬懿の手に水差しはなかった。

司馬懿はあれから暫く諸葛亮の元へ足を運ぶ事が出来なかった。
雪降る日が次第に減っていき、宮廷の庭に残っていた僅かな朽ち葉も全て土に還り、気の早い燕が間違って北上してきてその喉を鳴らすようなった、そんな季節になっても尚、司馬懿は迷っていた。しかし、このまま放っておいて何かが好転するとも思えなかった。あの時の動揺が、結局何かしらの気のせいであったとも思えるし、そうであってほしいと思っていた。
桃の季節が来る前に、決着を付けてしまいたかった。そう考えた司馬懿は、諸葛亮を訪なう事にしたのだった。
司馬懿は寝台の端に腰を下ろして、静かに諸葛亮を見た。
無表情のまま、諸葛亮も司馬懿を見た。いつもとどこか雰囲気が違う司馬懿に諸葛亮は不審を感じている様子だった。
司馬懿は何も言わずにひとつ息を吐いてから、諸葛亮を拘束してる縄を解きにかかった。それには諸葛亮がさすがに驚いてみせた。
「・・・貴方、何をしているか分かっているのですか」
「どうせ、貴様は弱っている。問題あるまい」
縄が解けた瞬間に、諸葛亮は思い切り司馬懿の顔を打った。しかし、暫く拘束されていた腕は思う様に動かず、打ったというよりは頬を軽く叩いた程度に終った。諸葛亮はもう一度手を挙げたが、それを司馬懿は捉えた。それでも懲りずに足で司馬懿を突き飛ばそうとしたが、長く歩いていない足は力なく、司馬懿に当たりすらしなかった。
弱々しく抵抗する諸葛亮の両手首を頭の上で寝台に押さえつけた。足をばたつかせる諸葛亮の首筋を深く吸った。どこをどうされると諸葛亮が身を捩るのか、全て分かっていた。舌を出して首筋から耳の下まで舐め上げると、食いしばった唇から息が漏れてきた。身体の形をそっとなぞるように撫でていくと、眉をひそめて息を震わせた。
「意地を張るな。貴様は覚えていないだろうが、一体いくつ夜を重ねてきたと思っているんだ」
囁いてみせると、嫌そうに顔を背けたので顎を掴んでこちらを向かせる。そして耳や頬に口を落とした。わざと音がするようにして吸うと食いしばっていた口を緩めて、いやだ、と泣きそうな声を漏らした。
下へと手を伸ばして、そこに触れると身体を強張らせたのが手首ごしに伝わってきた。どういうふうに弄られれば諸葛亮がよく啼くのか司馬懿は知っている。かい撫でるごとに、諸葛亮が理性を失っていくのが見てとれた。もう離しても大丈夫だろうと手首から手を引くと、何かに掴まりたがって痩せ細った指が寝台を彷徨った。荒くなった息が、ふと詰めるようにして止まったかと思えば、司馬懿の指が汚れていた。
「・・・本当に貴様は声を出さないな」
大きく息をしながら、ぐったりとしている諸葛亮の後ろに手を伸ばした。この期に及んでまだ諸葛亮は抵抗しようとしたが、それが役に立つ筈もなかった。動きを抑えるように司馬懿は深く抱きしめ、指を入れると身体を硬くした。指を深めると、あるひっかかりが見つかった。そこを擦ると司馬懿の腕の中で身悶えた。構わずにそこをいじり続けると、喉を反らせて「んっ・・・」と声を漏らし出した。司馬懿の袖を掴んで、その指が動く度に悩ましく頭を寝台に擦り付けながら熱く息を吐いた。しばらくすると、諸葛亮が震えながら司馬懿の腕を掴んだ。
「も、もうっ・・・」
「・・・どうした。どうして欲しい」
その言葉に諸葛亮はゆるく頭を横に振った。指で中をひっかくと「あっ」と胸を反らせた。
「はっきり言わないとやれないぞ」
またも諸葛亮は頭を振った。目尻に涙を浮かべて苦しそうな顔で司馬懿を見つめた。その腕を強く握り締める。懇願の替わりに、掠れた甘い吐息でそっと囁いた。
「・・・司馬懿」
その声に、思わず司馬懿が息を飲んだ。
指を抜いてから何も言わず性急に自身を埋めると諸葛亮が声にならない悲鳴を上げた。苦痛に耐える様に司馬懿の背中に爪を立てて、涙を流しながら身を捩った。強引に腰を動かすと荒く息を漏らしながら大きく震え出した。司馬懿も息を詰めながら大きく背を反らせた。

  

    

力なくぼんやりと身体を寝台に預けていた諸葛亮は、ふとある事に気が付いた。
司馬懿が、こちらを抱きしめたまま動かないのであった。もしやそのまま眠ってしまっているのでは、と思った時に自分の肩が濡れている事を知った。
「・・・司馬懿、貴方、まさか」
その言葉に、司馬懿は更に諸葛亮の肩に顔を埋めた。
諸葛亮は驚きを隠せずに司馬懿を見た。
確かに始めから様子がおかしかったのは分かっている。急にしばらく来なくなってから今夜唐突に来訪した司馬懿は、どこか顔が強張っていなかったか。
何故、今夜は薬を使わなかったのか。
何故、拘束を解いたのか。
「まさか」
司馬懿は黙したままである。
「嘘、でしょう・・・」
強く抱きしめようとしてくる司馬懿の肩を掴んで揺さぶった。
「何か言って、下さい」
「・・・」
「ねえ」
強引に引き剥がしてその顔を見ると、やはり司馬懿は泣いていた。
「嘘、ですよね」
「・・・」
黙り続ける司馬懿を、諸葛亮は容赦無く打った。
「信じられません・・・。なんて、なんて人ですか」
司馬懿は打たれたまま、呆然としていた。
それを見た諸葛亮は、司馬懿の首に片腕を回して引き寄せるようにして口をつけた。驚いた司馬懿の顎を掴み口を開けさせてその舌を吸う。
「ん・・・」
司馬懿は思わず抗おうと腕を張ろうとして、しかし止めた。口づけの間に、また一筋涙を流してはその顎から滴り落ちていった。
口を離す。濡れた音がした。
「・・・嫌がらせか」
「ええ、嫌がらせです」
そう言った諸葛亮の口を、司馬懿が強く塞いだ。深く絡めると諸葛亮がくぐもった声を漏らした。なめらかで、熱くて、悲しい、口づけ。
唇を離すと、諸葛亮がそっと「可哀想な人」と呟いた。
それを聞いた司馬懿は、どうしようもないように力なく笑った。
しばらく目を瞑って考えていた司馬懿だが、何気ない仕草で寝台に散らばった自分の袍をかき集めて羽織だした。
その様子をじっと見ている諸葛亮に背を向けながら帯を締めた。ひとつ嘆息した。
「・・・ちょうど今頃、成都では桃が咲き始めたそうだ」
それだけ言って、司馬懿は寝所を出て行った。
遠くで気の早い燕が一声鳴いた。外を見れば暁であった。
足下を見ると沓が一足置き去りにしてあった。どうやら裸足で帰っていったようだった。それを暫く見つめてから、痩せて小さくなった自分の足に履かせた。
ああ、愛おしき南には既に春が訪れているのかと、諸葛亮は噛み締めるようにして思った。

  

  

 

    
おわり

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