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白き泉のほとり

色が殆ど無い不思議な泉があって、そのほとりに貴方が立っていた。

 

  

久々に見た気がする貴方は、あの頃と何も変わっていなくて、相変わらず美しかった。
静かに泉のたもとに佇む貴方は何を見ているのだろう。魚か何かだろうか。
透明な風が柔らかく吹いた。
風に巻き上げられた鬢を手で撫で付けながら、ふとこちらを見た貴方は、驚いた顔をした。そして少し悲しそうな顔をした後に、優しく笑った。
微かに、梅の花が香った気がした。
自分は歩いていってその人に近づいた。

 

 

暫く沙汰も申し上げず、大変失礼致しました。

 

 

そう告げたこちらを見た貴方は、目を伏せてやはり慈悲深く笑った。それから泉に目を戻した。
自分も見てみると、そこには二匹の魚が泳いでいた。
一匹は真っ白な魚であり、もう一匹はどこにでもいる普通の色をした魚であった。色が無い泉の中を泳ぐその魚は、妙に目立っていた。
再度自分はその人を見た。
何度、この横顔を盗み見た事だろう。
いつも伏せがちの目元。通った鼻筋に、聡明さを表すかのような薄い唇。涼しげで流れるような黒く長い髪。
何度見ても飽き足らず、何度思い返しても満たされず、貴方のその容姿に惹かれて、その声に恋をして、その表情に想い焦がれ、その知性に胸が熱くなり、その所作に気持ちが震える。
貴方の全てが、私を捉えて離さない。
貴方が話をする時、大概周囲に気を配っているようにその話を聞いてたけれど、実はそっと貴方の横顔を見ていた事は多くあった。何か説明をする時、それに合わせてひらりひらりと動く大きくて細い手に目を奪われていたことも多くあった。
貴方の声は必要以上に甘く聞こえてしまい、何度心の中で慌てたことだろう。
何気ない時に、こちらを見て微笑むことがあった。
そう、先程のように。
一種あどけなくも見えるその笑みに、どれだけこちらの胸が締め付けられたことだろう。いつも厳然としている貴方がふと頬を綻ばす瞬間が、どれだけ罪深いのか、恐らく貴方には分からないことなのだろう。
貴方はいつも爽やかな香りのする香油をつけていて、時々書庫に入った時などに、ああ、先程まで貴方がいたのだと思う時があった。貴方がいない時、似たような香りを感じると常に貴方のことを思い出していた。

  

  

どこか遠くで、蝉しぐれが降っているような気がする。

  

  

貴方が小さく息を呑んだ。
目線につられて自分も泉を見ると、先程の魚から色が少しずつ抜けていくのが見えた。水に溶けていく顔料のようにその色素が零れていった。不思議な光景に思わず目を奪われていたが、傍にいた人が微かに嘆息を漏らした。そちらを見てみると、一筋涙を流していた。
なぜ、この人は泣いているのだろうか。
貴方を慰める為に抱きしめようとして、逆に貴方から優しく抱きしめられた。
一体、どうしたというのだろう。
嗚咽を堪え小さく震える声で、貴方は囁いた。

  

 

長い戦いでしたね。つらかったでしょう。

 

 

その言葉を聞いて、ああ、そうかとやっと悟った。

 

 

貴方は、こんな私に涙してくれていたのですね。
それは何と光栄なことでしょう。
そして何と幸せなことでしょう。

 

 

貴方に涙してもらえることが、こんなにも甘美だなんて想像もつかなかった。

    

    

自分は、その間際に貴方のことを思い出せたのですね。
それであれば、本当に、本当に。
良かった。
貴方のことを思い出しながらいけるなら、これほど至福なことはない。

   

    

己の人生は、本当は正しく無かったことの方が多いかも知れない。
多くの血を流させてしまったのかも知れない。
多くの人を苦しめて、多くの涙を流させて、多くの犠牲を払ってきたかも知れない。
一体、己の人生に誇れることなどあっただろうか。

    

    

それでも、それだとしても。

   

  

貴方と会えた、その事だけは。
それだけは。
いつまで私の誇りなのです。

   

  

貴方と話せた時の一瞬一瞬が。
貴方と共に歩けたその一歩一歩が。
貴方と見る事が出来た夢の一片一片が。

  

  

私の喜びであり、私の生きがいでありました。

  

  

貴方と会えて、本当に良かった。

    

   

貴方こそ、多くの悲しみと、多くの血と、多くの死と、分かれと、苦しみに耐えて、その弱っていく身体で最後まで、よく、そこまで。

  

 

悲願は達成出来ませんでしたが、恐らく先帝も許して下さる筈です。

  

  

ですから、どうか。
もう。
お心安く。

  

   

どうか。
安らかに。

   

     

そして私もどうやら、こちらへと来てしまったようですから。
また、色々とお話を聞かせてください。

   

  

よろしくお願い致しますね。

  

    

    

    
おわり

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