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しじまに聞く

遠くで女の人が薪を拾っていた。
寒い日だったと思う。かがんだその人の口元から白い息が丸まっては散っていった。
あの人は知っている人だ、と思った。
折った腰や作業に邪魔にならないようにまとめた髪の様子にも見覚えがある。誰だっただろう。ついこの間に会った気もする。
ふとその人が立ち上がった。何の前触れもなく。そしてこちらを振り返った。
やはり、知った顔だと思った。確実に自分はこの人を知っている。
しかし、どうしてなのか思い出せない。名前も、誰だったのかも。
考えてから、ああ、なんだ、あの人は父の後妻じゃないかと思った。
いや、しかし。
この間会ったけれど、あんなに歳を取っていただろうか。
違った。何という勘違いだ。
あの人は、自分の継母じゃないか。そう思い至ってから、おかしいと気付いた。
父の後妻も、継母も、同じ人だ。当たり前だ。
何を混乱しているのだ。
そうだった、馬鹿な勘違いを。あの人は、養父の正妻だ。つまり、自分の養母だ。そうだ。そうに違いない。
本当に、そうだろうか。
「おいで」
女の人は呟いた。遠くにいるのに、それは耳元で囁かれているかのように鮮明だった。
ああ。
なんということだ。
その人は、紛れもない。
自分の母じゃないか。
なんということだ。
自分は、自分の唯一の母を忘れていたというのか。なんという親不幸者なのだ。
「喬」
呼ばれて振り向くとそこには父がいた。
「父上」
あれ、と思った。
この人は誰だろう、と。
自分は今確かに「父上」と言った。
だが、この人は誰だろう。
そうして思った。
この人は、どっちの父上だろう、と。
 
「喬」
誰かが、呼んでいる。
「喬」
不快感があった。それは胸の辺りで吹き抜けない雲のように停滞していた。あとは口の乾きがひどかった。思わず眉をしかめた。
額を撫でられた。
見ると、心配そうに覗き込む父がそこにいた。
「うなされている、という訳ではなかったけれど。とても、辛そうな顔をしていた」
「・・・夢を、見ていた気がします」
「そう・・・」
吐息を漏らしながら顔を撫でてくる父の手は痩せていた。元から痩せている人だったが、ここ最近特に食が細くなってしまった気がする。そもそも、ここのところずっと父が食事をしている姿を見たことがない。
「今日は大変だったよ」
父は、どれだけ遅く帰っても自分の寝台まで来て、顔や頭を撫でながら今日あった出来事を聞かせてくれる。自分が病床についてから、自然とそのような習慣が生まれたのだ。
「また軍議で魏延と楊儀が口喧嘩をしたのだが、いつもそれを諌める費禕に別の人間がつっかかってきてね。二つの口喧嘩が勃発してしまって、事態を収集するのに手間取ったよ。後から人伝に聞いたら、突っかかった文官は費禕に先日賭博でこっぴどくやられたようで、それを恨んでのことだったらしい。本当に、いい加減にして欲しい」
困った顔をしながら、しかし恐ろしく優しい表情で自分を見つめる父は今年で四十八になる。さすがに最近は皺が深まったが、それでいてもなお父は凛としていた。
自分が諸葛孔明という人の息子になったのは、もうどれくらい前のことだろうか。
あれは本当に暑い日だったと思う。井戸の水も生温く、そこで胡瓜を洗っているときに実父が歩いてきて一言「お前は、年内にも西に行きなさい」とだけ言って背を向けたことを今でも良く覚えている。そのときに自分の胸に湧き上がった気持ちは、無体な、ではなくて、ありがたい、だった。
少し前から父が叔父と養子に関する書簡を交わしているのは知っていた。自分がその対象になっていることも。
 
自分は、もうずっと前から父に目を奪われていたのだった。
叔父が父になる前から、自分が叔父の息子になる前から。
 
叔父が孫権様と謁見をしに孫呉まで来たときだった。
久方ぶりだというのに父は叔父に会おうとはしなかった。公私混同を嫌う真面目な父らしいと思ったが「ご挨拶されないのですか」と聞いた自分に「しない」と返した父の僅かに眉をひそめた表情を見たときに、これは自分が知り得ない父の心うちがあるのかも知れないと思った。
そんな中、叔父が鳴りもの入りで孫呉へやってきた。ちょうど曹操軍が南下してくるという情勢で、応戦派と投降派で幕僚達が喧々諤々の日々だった。叔父の訪問は「敗軍の軍師風情が」と皆が見下しながらも思わずその動向に聞き耳を立ててしまうような、焦燥と傲慢、憂慮と混乱そして疲労が蔓延していた中のことだった。
父のあの返答はどこか叔父への拒絶を感じたために関係のない自分が会うのも躊躇われたが、叔父のことを知りもしない方々から悪口を叩かれながらも注目を集めているその人が気にならないというのは到底無理であった。父から殆ど話を聞いたことがない叔父。単純にどういう人なのだろうと思った。せめて遠くから見るだけならいいのではないかと考え、叔父が孫権様との謁見が終ったと聞いた後、来賓用の建物付近を何度かうろついたのだった。何日か経った後に「孔明殿」と魯粛殿に呼ばれて振り返る人を遠くから見ることができた。
 
背が高いその人が振り向くと、ひとつ澄んだ鈴が凛と響いた。
 
魯粛殿を確認して頬を綻ばせた叔父は、圧倒的だった。その佇まい、所作、目元の涼やかさ。今までこのような人を自分は見たことがなかった。誰と比べてどうとか、何かのようだとか、そういう説明では表現できない立ち姿だった。それが初めて見た叔父であり、二度とこの姿を忘れることはないだろうと思った。叔父の姿はあまりにも衝撃的であり、印象的であり、この光景を忘れたくないと強く思った。
耳の奥で長く細く響いた鈴の余韻が消えそうなとき、叔父がこちらを見た。まさかこっちを見るとは思わなかったので驚いた。煩い風の音に気付き、今まで音を忘れていたのだったと知った。
怪訝そうなようすでこちらを見ている叔父にどうすることもできず、軽く会釈をしてその場を去るしかなかった。父の態度もあったが、あの人にどうやって接すればいいのか分からなかった。本当はもっと見つめていたかったと悔しかったが、仕方なかった。あれから一度も目にすることはできず、次に会うのは自分が叔父の息子になったときだった。
 
夜はいつでも静かで家人も帰った今は、漢中の私邸で父と二人だけである。
虫がちらほらと鳴き出した季節になり、外から入ってくる空気に夏の後ろ姿を感じる。
父は、水を飲むかと聞いてきた。頷くと傍の小さな卓に置いてある口が細い碗を手に取りゆっくりと飲ませてくれた。乾ききった喉にそれは嬉しかった。零れた水は指で拭ってくれた。
碗を卓に置く父の手元を見つめた。父の所作の全てが絵になる。骨張った指も、どの角度から見ても様になるその顔も、僅かに変わる表情のひとつひとつ全てが。少しだけ目を細めて、眉を下げたこの表情は知っている。これは父が相手に引け目を感じている時の表情だった。
 
自分が西の叔父のもとに養子として行ったのは雪が降る前の初冬の頃だった。孫呉と比べて平原が多く、生えている草木も少し違うのだなと思った記憶がある。建物の様式も違い、右を左をと眺めながら歩いているうちに叔父の私邸に着いた。人家が孫呉と比べて少なく、迷うまでもなかった。質素な門の前で来訪の意を伝えると足音が聞こえてきた。
門が開くと、そこには叔父がいた。家人が出迎えるとばかり思っていたので、咄嗟のことで驚いた。
叔父は叔父で、私が驚いた顔をしていることに驚いているようすだったが、少ししてから「ああ、今みな出払っていまして。私は留守番なのです」と言って柔らかく笑った。それは初めて聞く叔父の声だった。なんと穏やかで美しい声だろうと心がひそかに震えた。あの時は、遠すぎて声が聞こえなかったのだ。
その叔父が、いる。ここに、いる。近くで見ても、存在の圧倒感は色褪せずにあった。そして、自分は今日からこの人の息子になるのだ。この人の傍で寝食を共にするのだ。実際に目の当りにしてから、やっと実感が湧いてきがする。
ふと顔を覗いてきたその人は、こちらの頬に手をあてた。眉を少しだけひそめて目を細めた表情は見ている人自分の胸を苦しくさせた。どうしてそのような切ない顔をするのか。
「こんなに冷えて・・・。早く中に入って温まりなさい」
そういって背に手を回して促された。一緒に生活をしていくうちに、この時の表情は自分に引け目を感じていたものだったと分かった。子供のいない自分達の為にわざわざ養子に来てくれてありがとう、といつか面と向かって言われた時にそれを知った。
 
「胸は苦しくないか」
顔を覗き込む父の顔に、はらりと一筋の黒髪が落ちた。何気ない、本当に何気ない要素のひとつひとつが絵になる人だった。そのことに父は気付いていないようだった。
自分が登城するようになり、父の職場に足を入れるようになってから多くのことに気がついた。昔はまだ官位も低く、若かった父は上の人間から舐められるようなこともあった。そういった人の中には手つきが怪しい者もちらほら混じっており、書簡を一緒に覗き込むようにして見ながら身体を引き寄せる者がいたり、議論をしている中、白熱してくると父を諌めようと肩や背中に手を置く者がいたりしたが、どれも不必要な手つきに自分は見えた。官位が上がっていくと気軽に身体に触れる者は減ったが、父を見つめ続けるものもいたりして、そういう光景を発見する度に心の奥で何か小さな不快の種が芽吹くのを感じていた。
いつの日か、やんわりとそのことを忠告したことがあったが、父は「では、もっと威厳を身に着けないといけませんね」と笑った。もう威厳は十分にあったし、そういう問題ではないと分かってはいたが正面きって言える気概もなく、これはもう自分ができるかぎりで父をお守りしないといけないのだと痛感した瞬間だった。
今夜は、昔のことばかり思い出す。
父と囲んだ食卓。父が指差しながら教えてくれた兵法。庭でふたり立ちながら他愛無い話をしたこと。路に大きく立派な鴉の羽が落ちていたので、拾い帰ってきて埃落としに使っていたら父に笑われたこと。誰かからか頂いた器を眺めながら、美しいですねと呟いた父の美しさ。
忙しいなかでも時間を盗むようにして桜を共に窓から眺めのが嬉しく、汗が止まらない季節は冬瓜を冷やしては分けて食べる喜びがあり、紅葉を眺める横顔に見惚れながら、雪は元々体温が低い父の熱をさらに奪ってしまいそうで心配をする。
自分にはいつも父がいたし、これからもいるはずだった。自分が、父を看取るはずだったのだ。
それなのに。
「父上」
「どうした」
「申し訳ございません」
自分には父しかいなかった。先ほど夢の狭間で見た、母だった人、継母、父だった人、彼らも自分の人生に大きく関わってきた人たちだが、本当の意味で自分の心にはいつも父が棲んでいた。自分はこの人の養子になってから、この人をずっと守れるのだと思っていた。信じていた。
「時間が、ないのです」
もっと、ずっと、父上をお守りするつもりなのに。
「時間が、なくて」
どうして、心の底から湧き上がる、熱望する、この気持ちひとつだけでも天は拾ってくれないのか。父をお守りしたい。このひとつだけでいいのだ。いいのだから。聞いてくれてもいいだろうに。
父は何も言わずに、険しい表情でこちらの額を撫でた。その姿も、心なしか白っぽく見えた。父が淡く光を背負っているようにも見える。
「お礼を言うつもりも、思い出話をするつもりも、弱音を吐くつもりも、ありません」
「喬」
「まだ、自分は生きます。生きなければならないのです」
「喬」
「絶対に生きられるはずです。誰が、誰が父上を残して死んでいけるのでしょうか。絶対に、また戦場に立てるはずなのです。そうなって、いるはずなのですから」
「喬、もういいから。また明日聞こう」
「いえ、今伝えたいのです。父上、父上はもっと注意するべきです。お願いですから、ご自身をもっとよく知って下さい」
「今夜はもう寝なさい」
「ご自身が、どれほど・・・」
「・・・」
「父上は・・・、父上は、ひどい」
「そうか」
「ひどいほどに」
人を惹きつけて、いけない。
どうして、ここまで気持ちが乱れるのだろうか。父上がごくありふれた官僚の一人であったら、自分がここまでもどかしい思いをすることもなかった。ただただ、父の背中を追っている息子であればよかったのだ。
「すまなかった」
父が、声を震わせている。
「お前には、いつも私たちの気持ちを優先してくれた。いつも私たちを支えてくれた。私は、これからお前に恩返しをしたいのだ。だから」
「孝行をするのは私です。父上に、私を育てて下さった、私の父上に」
「喬、私が見えているか」
「いつまでも、お守り致します」
「喬」
父が慌てている気がして、そちらを見ると普段はまず表情を崩さないその人が泣いているのが微かに見えた。聞いたこともない声が、聞こえる。
「医者を」
傍を離れようとする父の手首を掴んだ。自分でも、こんな力が出るのかと感心するほどにそれを強く引き寄せた。
「離しなさい。医者を」
首を横に振った。いや、振った気がしただけか。
「父上、時間がないんです。私は、父上よりは先には死にません。絶対に。ですが、ただただ、時間がないだけなのです」
「喬」
「父上」
「・・・」
「本当は、・・・本当はもっと」
「喬」
父がこちらの頭を抱えながらすすり泣いているのが聞こえた。音に聞こえた蜀漢の丞相が、そんな情けない姿を見せないで下さい。完璧な貴方が時々垣間見せる、そういった隙が、弱さが、優しさがあるから、よくない輩がつけあがるのです。
 
「喬」
呼ばれて振り向くとそこには父がいた。
「父上」
そこにはいつもの凛とした父が立っていた。少し、若く見える。
周りを見ると何故か雪が降っていた。秋の頃なのに、なぜこんなにも雪が降り積もっているのだろう。足下も、空も、木も建物も全てが白い。その中で父の髪は匂いたつような黒檀で、深い優しさがそこにはあった。
「父上。自分は父上の息子として生きることができて、本当に幸せ者です。貴方の叡智を、気高さを、品性を、教養を、人としての美しさを、間近でずっと見つめることができました」
父はただこちらを見て微笑むだけである。
「貴方は計り知れないほどの、何にものにも例え難い経験を下さいました」
そこまで言って、ふとある事に気が付いた。
これだけ雪が降り注ぐのに全く寒く、冷たくないのだ。息は何故か白くない。ああ、これならば父は寒い思いをせずにすむ。咄嗟に、そう思った。
音がどこかへ行ってしまったかのうような、吸い込まれる静寂。
「私は貴方に憧れていました。一目見たときから、今でもずっと」
父がこちらへ歩み寄ってきた。そっと手を額にあてられる。そのままゆっくりと下げて、目を閉じられた。慈しみの暗闇。
目蓋の裏に、父の微笑みが見える気がした。ああ、自分はこの人に。
もしかしたら。
ねえ。
恋をしていたのでしょうか。
目を開けるとそこに父はもういなかった。
降り注ぐ、秋の雪はただただ白く潔く。
音も、なく。
   
 

 
おわり

 

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