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ろくでなし

「・・・ここまでの説明でどこか分からないところはありましたか」
「いや」
夕餉が終わった後に、孔明に学問を教えてもらう事がある。
今夜もその日であった。
そういう時は決まって自分の寝台に彼を呼んで、書物を読んでもらったり様々な議論をするのだった。そして自分は彼の膝元に座って身体を預けるのが殊更好きだった。これは幼少からの癖で、こうしていると彼も書物を読み聞かせやすいし、自分としては彼のぬくもりや匂いが身近に感じられるので、この体勢が好きだった。
「阿斗様は本当に飲み込みが早いですね」
「お前の教え方が上手なのだ」
その言葉に少し照れた様子を見せながら孔明はこちらを覗き込んできた。
愛しい子供にそうするように、優しく優しく私の額を撫でた。
「勿体ないお言葉です」
そうやって柔らかく微笑む様が、私は大好きだった。
その表情を見たいが為に時々分からない事があっても「分かった」と言ってしまうのだ。彼に褒めてもらいたいから。
彼は、いつでも私に優しい。
忙しい合間を縫って学問を教えてくれたり、少しでもこちらの体調が悪ければ心配をしてくれて、機嫌が悪い時はそれとなく放っておいてくれて、少しすると「いかがしましたか」と、気遣うように声をかけてくれる。
本当に、彼はいつも優しいのだ。
そして、そんな彼に、自分は恋をしていた。
いつからなのか既に思い出せないが、物心がついた頃から彼の姿はいつも目で追っていた気がする。
あれは一体どこだったのだろう。自分がまだ幼かった時だ。風に髪を梳かせながらじっと佇んでいたその後ろ姿に見惚れた事があった。立っているだけなのに何故こんなにも美しいのだろうかと不思議に思った事を今でも覚えている。
そして気持ちは月日が経つにつれて、どんどん大きくなっていった。
はじめは見ているだけで満足だった。
次はその手に触りたくなった。
今度は彼に身体を預けてみたくなった。
こうして、彼のすぐ傍にいられる時間は本当に幸せだった。
それでも。
もはや、これ位では満足が出来なくなってしまったのだ。
「孔明」
「はい」
「孔明」
「・・・はい」
「孔明」
「・・・」
「何でもない。なんでも、ないのだ」
もし、この人を抱きしめたなら一体どのような顔をするのだろう。
もし、そのまま口づけでもしたら、一体自分はどうなってしまうのだろう。
もし・・・。
考え出すと、止まらなかった。気が付くと衝動的に、後ろにいた孔明を思いきり抱きしめてしまっていた。
「阿斗様」
そのまま寝台に押し倒してしまいたかったが、自分の身体の大きさでは無理だった。やすやすと孔明に身体を支えられてしまった。そしてこちらの頭を撫でてくれた。どうやら、急に人恋しくなって抱きついたとでも思っているのだろう。
自分がどこか情けなくなって、いっその事口づけてしまおうかと自棄になった。彼の頬に両手を添えた。彼の顔をこんな近くで見つめるのは一体いつぶりだろうか。
「阿斗様」
片手を彼のうなじに落として、顔を寄せる。
すると孔明は自ら顔を寄せてきて、こちらの頬に口づけをくれた。
小さい頃、眠りにつく際に「ずっと傍にいてくれ」と言ってぐずると彼はそっと頬に口づけをくれた。そうすると自分は何故か満足して、そのまま眠ってしまう事が多かったのだ。
きっと彼は、今も自分がそれをして欲しかったのだと勘違いしたのだろう。
「私はそろそろ行きます。・・・寝られそうですか」
違う。
違うのだ。
もう、私は、子供じゃない。
書物を抱えて寝台から降りた彼の手を思わず掴んでしまった。
「ずっと、一緒にいてくれ」
「・・・恐い夢でも見るのですか」
「・・・そうだ」
「困りましたね・・・。私は殿の元へ行かねばなりません」
そうだ。彼の、一番の優先事項は父なのだ。
そんな当たり前の事を思い出してしまって、一瞬嫉妬というのか寂しさというのか、独占欲というのか、そういった様々な感情が自分の中で渦巻いたのが分かった。
「もし恐い夢を見たら、私を呼んで下さい。そうしたら、阿斗様の夢の中へ孔明が助けに参ります」
そう言って微笑んだ。
そんな子供だましで私が納得するとでも思っているのか。
「・・・それなら、まじないをくれ」
「まじない、ですか」
「そうだ。・・・お前の口づけをくれ」
そう言うと、孔明はまたこちらの頬に顔を寄せたので「ちがう。・・・頬ではなく、口に」
その言葉に少し戸惑った様子を見せた。しかし、それもまた人恋しさ故かと思い直したらしく、そっとこちらの口元へ唇を落としてくれた。
彼の軽い口づけがひどく私を酔わせた。たったこれだけの事で身体の奥に、何とも言えない熱の固まりが生じたのを感じた。
もし、彼の手首を掴んでそのまま寝台に押し倒したら、一体どのような顔をするのだろう。
もし、その身体に触れたら、一体どのような声を上げるのだろう。
もし、私の手で、彼の・・・。
「では、ゆっくりお休み下さいませ」
「・・・ああ」
静かにこちらの額を撫でてから、彼は部屋を出ていった。

 

 

いつも優しくしてくれる彼に、自分は何をしたいと思っているのか。
息を荒げながら泣きそうな顔で縋りついてくる彼を想像してしまい、思わず息が上がった。
自分はなんて事を考えているのだろう。
それも、父の寵臣である彼に。
いや。
だからこそ、なのか。
いつか、もしかしたら、本当に彼をこの身体の下に組み敷いてしまう日がきてしまうのかも知れない。
そして、嫌がるだろう彼の耳元で囁いてやりたい。
教えてやりたい。

 

  

私の方こそ、お前を愛しているのだと。

 

 

父の美しい寵臣をこの手で汚す様を夢想すると、震えが止まらなかった。
ああ。
こんな邪な愉楽に浸りたいと願ってしまう、そんな私は。

 

 

本当に。
単なる。

   

  
ろくでなし。

  

  

  

  
おわり

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