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想い出の人と想い人

夕暮れ時から始まった宴会は段々とこねられていって熱を帯び、皆が皆上機嫌で笑い合い、冗談を言い合ってそれはもう騒がしかった。
そんな中、会場の隅のほうでひとり杯を重ねる人間がいた。
以前投降してきた蜀の元第二代皇帝劉禅である。
女に酌をさせるでもなく、ただぼんやりと宴会場の中心あたりを眺めていた。
それに気が付いたのは司馬昭であった。
劉禅が投降してから色々と気にかけていた。前までは皇帝であった人間が敵国の役人に成り下がるのだ。その心中いくばくかと自分の事の様に気を揉んでしまうのだが、当の本人はどこふく風という体で常に飄々としている、変わった人物でもあった。
自分の杯を持ちながら劉禅の傍へと腰を下ろした。
「何を、見てるんだ?」
「ああ、これは司馬昭殿。・・・いえ、特に何も」
劉禅はいつもどおりの笑みを浮かべて、その問いを流した。
何も見ていない訳がない。先程からあれだけ同じ方を向いていたのだ。司馬昭はそう思って、そこから劉禅の視線の先を見る。
そこには宴会に華を添える芸妓達が舞を踊っていた。
「・・・劉公嗣、・・・そうならそうと早く言ってくれればいいのに。水臭いぜ」
その言葉に、また劉禅は笑って答えた。
「・・・昔、想いを寄せていた人に、似ていましたもので・・・。」
「へえ」
珍しい話題になったなと司馬昭は表情を明るくした。今まで殆ど自分の事を語らなかった劉禅だが、余程思い出させるような、そういった似た雰囲気を持つ女があの中にいるらしい。
「ちなみに、どの女なんだ?」
「・・・内緒です」
「いいじゃないか。教えてくれたって」
劉禅は微笑して首を横に振った。
「・・・もう、照れなくてもいいじゃないか」
その言葉に劉禅は声を出して笑った。
「照れている訳では、ありませんよ」
「それならさ、その想い人はどういう人だったんだ?」
劉禅は少し俯いて目を瞑った。その人を思い出しているのだろうか。
見たこともないような、柔らかい表情になった。
「・・・そうですね。優しい人でした。私が小さい頃はよく膝に乗せてくれて、色々な書物を読み聞かせてくれました」
「へえ。・・・そう聞くと、侍女のうちの誰かかな?書物が読める侍女っていうのも珍しい話だが」
「・・・ふふ。どうでしょうね。・・・それは黒髪の人で、罪深い程に、・・・美しかった」
「・・・」
「こう言うとおかしく聞こえるかも知れませんが、私はその人をいっそ、どこか誰にも見えない場所に匿ってしまいたかった。そして、自分しか、目に映らないようにしてしまいたかった」
「・・・分からなくはないな」
その言葉に、少し驚いたような表情で司馬昭を見た。
「あらあら。僅かでもご賛同頂けるとは。思ってもみませんでした」
「でもさ、劉公嗣、あんただったらやろうと思えば出来たろ。・・・どうして、そうしなかったんだ」
「・・・そうしたいという気持ちと、そうしたくないという気持ち、両方があったものですから」
「そうしたくない気持ち・・・?」
「その人はとても凛としていた人で、そういう所も好きだったのです。自由を奪ってしまえばそういった気高い精神を潰すことにもなりますから。・・・それでは、意味がありません」
「ふうん。そういうもんかね」
「そういうものです」
宴会場の中心で喝采が起きた。ちょうど舞が終わったらしかった。
「しかし、その人って一体どんな人だったんだろうな・・・。なんだか劉公嗣の話を聞いてたら余計に想像しづらくなっちゃったよ」
「まあ、確かに、稀有な人であったことには間違いありません」
「どうよ。言ってくれれば、あの芸妓達の中からお好みの人を部屋に寄越すけど」
「いりません」
司馬昭の提案に劉禅はそう即答した。
その様子を見て、思わず笑ってしまった。
「・・・余程、その想い人が忘れられないと見える」
「自分としては、もう忘れてしまいたいですよ。・・・つらいだけですから」
自嘲気味に呟いた劉禅は面を上げた。
「そういう司馬昭殿こそ、どなたかいらっしゃらないのですか?」
「・・・いなくは、ないんだが」
「へえ。どういう方ですか」
司馬昭は言葉を選ぶようにして、ゆっくりと口を開いた。
「・・・綺麗な目をしている人で、小柄で、髪は柔らかそうで、・・・いつもいつも哀しそうに笑っている」
「・・・」
「こんなふうに」
そう言って、司馬昭は劉禅の顎にそっと手を添えて自分の顔を近付けた。
「哀しそうなのに、笑うから。・・・こっちまで、哀しくなる」
「・・・」
少しだけ驚いた表情をした劉禅は、やはりいつもの笑顔に戻ってその手を優しく外させた。
「・・・難儀な恋ですね、それは」
「・・・」
「その人の中には、今でもその想い人が棲んでいますよ」
「でも、忘れたいと言った。つらいからと」
「・・・そう、口にしてしまいたくなるほど、深く深く棲みついてしまっているのです。・・・貴方に、その代わりが出来るとでも?」
「代わりになるつもりはない。・・・でも、新しい方向へ向かせることは、きっと出来る」
「・・・貴方の想い人に、そこまでしてあげる価値があるとは到底思えませんけれど」
「それは、あんたが決めることじゃない。俺が決めることだ」
「・・・好きに、すればいい」
「好きにするさ」
そう言って司馬昭は劉禅の襟を掴んで思い切り引き寄せた。
頭を抱えるようにして口を合わせる。その、唇の柔らかさに司馬昭は胸が熱くなった。
しばらくしてから離すと、劉禅はいつもの笑みを無くして静かに呟いた。
「・・・私、その想い人を忘れるつもりは、さらさらありませんよ」
切ない目のその人を抱きしめて、そっと言った。
「かまわないさ。それでも」
「・・・変わった人だ。貴方は、本当に」
   

      

  

夕暮れ時から始まった宴会は段々とこねられていって熱を帯び、皆が皆上機嫌で笑い合い、冗談を言い合ってそれはもう騒がしかった。
そんな中、会場の隅のほうでひっそりと身体を寄せていた二人は、しばらくしてから何事もなかったように、またいつもの様子に戻っていた。

   

   

  

   
おわり

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