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瑪瑙のため息

  
  
 
俺は何か、してしまったのだろうか。
 
 
 
執務室は暑くもなく寒くもなく柔らかい風がふらりふらりと遊びにくる、そんな昼下がりだった。遠くで鍛錬を監督する将達のかけ声が木葉ずれの音に混じって聞こえてきた。
近頃の丞相府の様子を見ているとそこまで急ぎの仕事が詰まっていないのか、比較的穏やかに見えた。俺は朝の鍛錬を終えて用具や兵卒達の様子を確認してから彼の執務室に足を運んだ。特に用事というものはないのだけど、近頃顔を合わせていなかったので久々に話をしたいと思ったからだった。今日であれば、昼に遊びに行っても怒られないような気がした。
執務室の前に立つと、未だに少し緊張する。中に誰かいるだろうかという心配もあるし、基本的に執務をしている時の彼は気持ちが張りつめている時が多いのでその雰囲気を思い出して思わず自分も背筋が伸びてしまうのだった。
ひとつ大きく息をしてから扉の中へ声をかけると、どうぞといらえが返ってきた。
静かに開けるといつも通りの彼がそこにいて、一瞥をくれてからすぐ机上に目を戻した。やはりそこまで今日は立て込んでいないらしい。忙しい時には指でそっと押せば崩れそうなほどに積まれた書簡がそこにはあるが、今日は山になるような量の書簡は置かれていなかった。
どうやって話しかけようかと少し考えてから「最近はどう」と何気ない話からしてみることにした。
そうするといつもは書簡に目を落としながらでも「そうですね・・・、最近は落ち着いています」とか「忙しいですね」と短いながらも答えが返ってくるものなのだが、今日は「そうですね・・・」だけで途切れてしまった。
書簡の量は少ないけど実は今複雑な作業でもしているのだろうか。どうしよう、邪魔になってるのかなと思いながら、もう一度だけ話しかけてみることにした。でも、どの話題にしようか。
目を向けると書簡を読んでいる彼の睫毛が目に入った。俯いているのでその長さがよく分かる。本人は決して女性的な顔立ちではないのだが、顔や身体の造りのこういった繊細な部分が彼の品の良さを際立たせているような気がした。指は別に細くないし昔農耕をやっていたと言われて頷ける逞しい手だけど、爪がとっても奇麗。評議の時は特に厳しくていかめしい顔だけど、そっと書簡に視線を落とす時に細める目元の美しさに溜息が出る。執務の話をしている時の声は重さがあって近くで聞いているとそれだけで緊張してしまうような雰囲気があるけれど、独り言を呟いた時の囁きとか、雑談をしている時の柔らかい声音に気持が掴まれる。陛下の側に立ってこちらを見ている時の彼は威圧感があって自分ですら近付き難い気配を持っているけれど、ふと礼を返したり何か物を取ったりする時の何気ない手つきや身体の動かし方は自分達武人には出来ないような優雅さがあって、やっぱり見惚れてしまうのだった。
そうやってぼんやりしていると彼が髪留めを指でいじった。これは書簡を読んでいる際に無意識でよくやっている彼の手癖だった。そしてその髪留めは先日自分が彼に贈ったものだと言う事に気が付いた。良かった、話題が見つかった。
「あ、それ使ってくれてるんだ」
俺がそう言うと、彼はやっとこちらをしっかりと見た。それから少しだけ目線を下げた後、何も言わずに書簡に目を戻してから微かに溜息をついたのが聞こえた。
これには流石におかしいと気が付いた。どれだけ忙しくても、例え執務の邪魔になっている時でさえ何かしら言われたら返答をするのが彼だった。
と、いう事は。
彼は何かに怒っているのだ、恐らく。しかし、その何かが分からない。
何をしてしまったのだろうか。
ここ最近の事を思い返してみたが、一切心当たりはない。もしかして自分の与り知らぬ所で根も葉もない噂が立てられているとか。いや、そんな確証もない噂話を彼が鵜呑みにする筈がない。それでは、一体なぜ。
考えれば考える程何も思い付かなかった。
彼が怒っている。
それを自覚してしまった時点で、この場所にいる事すらなんだか気まずくて落ち着かなかった。
怒っている相手にそれを聞くのは本来あまり良い手ではないのだけれど、他に方法がない上にこのままにしておく訳にもいかない。もしかしたら誤解の可能性もあるのだ。勇気を出して聞いてみる事にした。
「・・・その、君、怒ってるよね、俺に対して」
「・・・」
「ごめん、俺色々と思い返してみたんだけどやっぱり分からなくてさ・・・。どうして怒っているのか、教えてくれないかい・・・」
出来るだけ優しい声で言ってから、そっと彼の側にいって顔を覗き込んだ。
それでも彼はこちらを無視するかの如くしばらく動かずにそのままの姿勢でいたのだが、ついに書簡を自分から少し遠ざけてひとつ大きく息を吐いた。それから片手で自分の顔を覆った。
「・・・ごめんなさい」
急に謝られて、逆にびっくりしてしまった。怒っていたのではないのか。
「え、どういうこと」
「ごめんなさい」
また、か細い声で彼が呟いた。こちらとしてはもう意味が分からない。
「ごめん、全く意味が分かってないんだけど、俺・・・。どうして謝るの」
そう言って彼の側に寄ろうとしたら、拒絶するかのように手の平を向けてきた。
「すみません。今、私に近付かないで下さい。ごめんなさい」
怒っているのか、謝っているのか、どっちなのか、どっちでもないのか。
「・・・さすがに俺も、このままじゃこの部屋出れないよ・・・。落ち着くまで待つから、どうして謝るのか、教えてくれない」
「・・・」
彼は今度は両手で顔を覆ってから、長く深い溜息をついた。何かを考えているのか、しばらくその姿勢のまま固まっていた。
ふわりと涼しい風が部屋の中に入ってきた。
少しして彼が手を外してこちらをそっと済まなそうに見てきた。
「その、失礼な態度を取ってしまって、申し訳ありませんでした」
「そんな、それはどうでも良いよ。だって、きっと何か理由があったんだよね。それを教えてくれれば俺だってちゃんとそれを直す努力をするからさ」
「・・・いえ。特にありません」
「ないって、あれだけ怒ってるふうだったじゃない。さすがにそれは俺も信じられないよ」
「・・・」
「些細な事でもいいから」
「・・・」
そう言うと彼は顔を背けて目を閉じた。少し息を整えてから、気まずそうにして言った。
「・・・どうして、帯飾りをつけてくれてないのだろう、と思った、だけなのです・・・」
「え」
一瞬何を言われているのか分からず思わず変な声が出てしまった。彼が少し怒ったような声で被せる様にして言ってきた。
「だから、些細な事なのです。このような事で、こういう態度を取ってしまう私が悪いだけなのです。ですから、ごめんなさい。もう気になさらずに」
普段穏やかに話す彼が、息継ぎもせずに一気にそう言った。
それを言われてやっと自分にも思い当たる節があった。あれは先日彼が俺にひとつの帯飾りを贈ってくれたのだった。黒橡の締めた麻紐に瑪瑙の玉がついた帯飾り。それはお祝いの席で出されるような、輝く蜜を纏った小粒の李のように艶やかで美しかった。そして彼が俺に贈り物をしてくれたという事が嬉し過ぎて、身につけたいんだけど失くしたり壊したりするのが怖くて未だに自邸の寝台の側にひっそりと飾ってあるそれ。もしかして、その事で拗ねて、いたのか。だとしたら、なんていうことだろう。
俺はそう思っているから、むしろ大切にしたいからこそ今まで身につける事を躊躇してしまっていたんだと慌てて説明した。
そうすると、彼は本当に恥ずかしそうに俯いた。
「分かってはいたんです。貴方の事だから、きっとそうなんだろうと。それでも、その、どうしても気になってしまって・・・。そんな些細な事、気にしなければいいのに、でも気になってしまって・・・」
「・・・」
「言葉では分かっているのに、どうしても・・・、その。ああ・・・、あまりにも大人げなかったですよね。本当に、・・・ごめんなさい」
そこまで一気に言ってから、彼は席を立った。いたたまれなくなったのか、そのまま部屋を出て行こうとした彼の手首を掴んだ。やはり駄目か、とでも言うように怒られた子供のような目でこちらを見てきた。
「何も、恥ずかしい事じゃないじゃない。本当はつけて欲しかったんだよね。それなら、ちゃんと言ってくれればよかったのに」
「なにを」
俺の言葉に彼は少し顔を赤くしてみせた。
「まさか。そんな事、そんな事言える筈がないじゃないですか」
「どうして」
「どうしてって・・・。こんな、いい歳をした男が、どうしてそんな事言えると思います。言える訳、ないじゃないですか・・・」
振りほどこうとしてきた彼の手首を、俺は思いきり引き寄せた。
「あ・・・」
そして、愛おしさに任せて抱きしめてからその頭を撫でた。きちんと整えられている黒髪が乱れる。
「可愛い」
彼がほつれた後れ毛で目元を陰らせながら、大きく息をついた。
「貴方いつもそれを言いますけど、男がそれを言われても嬉しくはないですからね」
「そうだとしても、そう思うんだもの。いいじゃない」
「・・・あまりにも自分が情けなくて、本当に、もう・・・」
彼がこちらの肩に顔を埋めて嘆息しているのが見えた。
抱きしめると墨の匂いがする。この人の目配せひとつで将軍達が背を正す。陛下ですら相父だからといってこの人の意見を仰ぐ時がある。立っているだけで計り知れない威厳と品格を放つ人。
でも、今はこの腕の中で困ったように溜息をつく、そんな人。
この人がまさかこんな理由で拗ねているとは思わなかった。
「もう、嫌です。・・・自分が」
「俺は最高に良い気分」
「そういう貴方も嫌です」
「俺は、そういう君が大好き」
「話、通じそうにないですね」
「気持ちは通じてるんだから、いいじゃない」
「・・・もう、どうでもいいです」
何度目かの溜息をついた彼のこめかみに口づけを落として、俺もまたその頭を撫でた。

明日は、絶対にあの帯飾りをつけていくから、そうしたらきっとまた。

笑ってね。

  

   

   

   
おわり

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