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鯉は嗤う

劉禅様は、臣下達の慰労という目的で宴を所望されることが多かった。しかしながらその全てを叶えていては国費、のちの軍資金が枯渇する。陛下が仰ったとはいえ、経費が掛かる案件は必ず大司農を通して右将軍である自分のもとへ稟議が回ってくる。その都度確認をしながら通すか撥ねるかを決めなければならなかった。却下する場合は毎回陛下の元へ説明をしに出向き、納得してもらっていた。
陛下も最早承知の上であるのか、何度か出してそのうちのいくつかが通ればいい、位に思っているようである。そして、今自分の手元に宴の稟議があった。
ここのところ撥ねっぱなしではあったので、そろそろ通すべきかと稟議に承認の筆を走らせたのは数日前。
 
国務をこなす為に漢中から成都へ、数名の文官たちと一時的に帰参している頃だった。成都に戻った時はまず陛下へ謁見をする。その際、今回の宴は御意のままに催しますと伝えると、いつも微笑んでいる顔をさらに柔らかくして「そうか」と頷いた。その目元は前にもまして茫洋と見えた。傍に仕えていた黄皓に宴会の準備を任せた。
自分としては執務の為にわざわざ前線の漢中から成都へ戻ってきているのだ。本当ならば宴など出席せずに山積した執務をこなしたいが、やはり立場上そうもいかなかった。
宴所へ向かう途中、人とすれ違うとたちまち、いつ成都へ戻られたのですか、漢中の様子はいかがですか、魏軍の動向はどうなっておりますか、お耳に入れたい話しがございまして、息子の昇級の件ですが、近いうちにご相談したいことが、今年の徴税の件ですが、などと吸い寄せられるようにして方々から声を掛けられた。答える必要がありそうなものは手短に答え、時間が足りなさそうであれば後日執務室へ来るように促し、答えるほどのものでなければ陛下に呼ばれているのでと早々にその場を切り上げた。
何とか広間に着くと、一緒に漢中から付き添ってきた費禕が出迎えてきた。
「右将軍、陛下がお求めでいらっしゃいました」
「ありがとう、文偉」
羽織っていた袍を脱ぐと費禕がさりげなく預かっていった。目で探すと奥に陛下と侍女達が見えた。
「陛下」
「ああ、孔明。来てくれたのか」
「陛下のお心遣い、ありがたく存じます」
「お前は本当に優しいな」
陛下自ら傍にあった空の盃を手渡してきた。こちらを見ているような、見ていないような、淡い視線。速やかに受け取る。
「孔明。今宵くらいはよかろう。もしお前が潰れたら、私が介抱してやるぞ」
「そんな、畏れ多い・・・」
隣にいた侍女が盃に酒を注いできた。化粧の匂いが漂う。この独特な香りも随分と久しぶりに嗅いだ気がする。
「とにかく、飲みなさい」
干した盃にまた注がれる白濁の酒。とろりと崩れた米を舌で潰しながらゆっくりと喉に流し込む。陛下と歓談していると、もっと飲めと促された。珍しく戦や賢人達の話を自主的に聞きたがる陛下につられて言を重ねていると、喉が渇くのか無意識的に盃も重ねていってしまった。
「お前から色々と話が聞けて嬉しい。久々に会えたのだしな」
「勿体ない御言葉でございます」
先程と比べて人も増え、喧噪が大きかった。何度か陛下が言っている言葉が聞こえずに聞き直すようになっていった。
「孔明、もう少し寄りなさい」
気が付くと腕を引かれ身体を抱き寄せられた。
「陛下」
「気にするな」
あまりにも近付き過ぎてしまった為に狼狽えた。いくら赤子の頃から見守ってきたとはいえ、今の彼は蜀漢の第二代目皇帝である。
「ですが」
「それよりも、もっと飲んだらどうだ。お前は私の前ではあまり飲まない。つまらないではないか」
そう言うと陛下は自分の盃をこちらの口へと持ってきた。思わず顎を引くと覗き込む陛下のあどけない表情が見えた。いつ見ても、崩すことのない優しい笑顔。柔らかい目元。静かな息遣い。その瞳の色は、大きかったその父によく似ていて。
「孔明」
押し当てられてた盃から、酒が零れる。
「陛下」
「ああ、注ぎすぎたようだ。すまぬな」
耳元で囁かれる、普段にない、低くどこか甘い声がこちらの背筋をざわつかせた。まっすぐに見つめてきて、唇から零れた酒を親指で優しく拭ってきた。
「陛下」
「お前は、本当に危ういな」
「・・・どういうことでしょう」
「望む望まないにせよ、多くの人間の生き方を変えてしまう」
「・・・立場上、それは覚悟しております」
「そうだな。しかし、もし今のお前に地位がなかったとしても、それでもお前は変えてしまうだろうよ、周りの人生を」
「・・・そうでしょうか」
「望む、望まぬに関わらずな。・・・辛いな」
「・・・」
何が辛いのか、一体陛下は何を考えているのか、分からないまま自分は少しそこで過ごしてから退席した。他にも挨拶に行かねばならぬのもあるが、あれ以上陛下の傍にいると、あれ以上近くで見つめられると落ち着かなく、心がさざめくからであった。
 
「右将軍」
ここのところずっと前線の漢中にいた中、久々に宮中の宴に参加したからか悪酔いをしてしまったらしい。成都に着いたばかりでもあったので、まだ疲れが取れていなかったこともあるだろう。情けないことに費禕が付き添ってくれてやっと歩けるような状態だった。ここまで深まったのは本当に久しぶりである。
「すまない」
「いえ」
あちらこちらに足が迷い、その度に費禕が引き戻すように腕を寄せてくれた。その力はどこか文官らしからぬ逞しさだった。
費禕は何をやらせても上手くこなした。多種多様な執務も、人との交渉も、遊びも、博打さえも彼は上手だった。恐らく自分と違って武術なども得手なのかも知れない。幼い頃に父を無くしたという彼は、甘えたところが微塵もなくどこから見ても素晴らしい人間だった。思わず内外に自慢してしまいたくなるほどの下僚だった。
宮中から丞相府の自室に向かう間、中廊を抜けると夜露に香る風蘭が見えた。それは暗い中にひそりと浮かびあかる月明かりのようだった。
「御気分はいかがですか。あともう少しで着きますよ」
「ありがとう。良くはないですが、大丈夫です」
支えられながら自室の前に立つ。費禕が扉を開けると、中から微かに墨の匂いが漏れ出てきた。
自分を寝台に横たえてくれた彼は窓を開けるとすぐに部屋を出て行った。窓から流れ込む外気を味わうようにして吸った。何度か大きく息をすると、心なしか気分が良くなった。
しばらくして費禕が瓶と布を持ってきた。
「これで顔や身体を」
差し出された布は湿っており、言われた通りに顔を拭くと気持ちが良かった。首や腕も拭った。その間に彼は執務机に置いてあったままの碗を漱ぎ、水を窓から見える草木に向かって捨てていた。
「水は飲めますか」
頷くと彼はこちらの背に腕を入れて身体を起こしてくれた。口元へ差し出された碗に、先程の劉禅様が思い出される。
どこか悲しく、優しい双眸。甘いほどのそれに、先帝の眼差しを垣間みた。
「右将軍」
上の空で水を喉に流したからか、むせてしまった。情けない。
費禕は慌てて背中をさすってくれた。心配そうに覗き込むその表情は、喬を思い出させた。そして引き摺られるようにして、彼の、姜維のことも。咄嗟に想起されたのは、こちらを押え付けながら漏らす吐息でもなく、執務中に無表情で執拗に向けられる視線でもなく、いつの日か軽い錯乱状態になった時に足を踏み外して池に落ちたとき、こちらを追ってきた彼の慌てた様子だった。無心にこちらを助けようとしていたその姿はあどけなくもあり。
「右将軍」
費禕の複雑な双眸がそこにあった。色の薄い瞳が床に反射した月明かりに照らされて淡く揺らぐ。何か言おうと口を開いてから、噤み、そして微笑んだ。少しして、自分は彼に涙を拭われているのだと気が付いた。
「どうして」
「まさか。ご自身が流されている涙の意味も、分からないのですか」
「・・・」
「どこか、痛いのですか」
否定すると、費禕は寝台に片膝をのせてこちらに向き合ってから、頬を拭っていた手を頭の後ろに回してきた。
「では、悲しいのですか」
梳かれる髪。そうされると、悲しい訳でもないのに、流れた涙を追うようにまたひとつ、頬を濡らしていったのが分かった。それを見て本当に悲しそうなのはむしろ費禕の方であった。
私は悲しくない、と首を緩く振ると彼が恐ろしく穏やかに口づけてきた。あまりにも自然で、母が傷付いた子供にそうするように。夕暮れにかける、おかえりの挨拶のようにごくあたりまえに。
「おいたわしい」
彼が寝台に上がってきて、包むように横たえられた。酒の匂いに混じる、費禕の袍に薫き染められた沈香が鼻をくすぐる。
「悲しくても、辛くても、ご自分ではそれが分からない程に」
「文偉」
言おうとして、今度は長く口づけられた。柔らかく、何かを解くように、ゆるやかに、こちらの胸が締め付けられる程に優しく。何故か自分の身体を覆う彼の重さでさえ、どこかこちらを安心させるように情け深い。抱かれながら口を強く吸われると、望まない吐息が唇をついた。
「・・・っん」
自分を離して費禕はひとつ息を吐いた。口をあわせていたからか、惚れたように唇が色づいている。
「貴方が女であれば、どれだけ単純な話だったでしょう。攫ってしまって、そのまま抱いて。大事にして、可愛がって、笑顔が見られる迄なんだってすればいい。貴方が喜ぶまで花を贈ればいい。貴方が私に頼ってくれるまで守り続ければいい、貴方が私の名前を呼んでくれるまで自分が貴方の名前を呼び続ければいい」
穏やかに、掠れた声で囁く。こちらの額をそっと撫でる。彼の手が、熱い。
「ですが、そうもいきません・・・」
「・・・」
「貴方が、癒されるのはいつですか」
「文偉」
「貴方は、洛陽に蜀漢の旗を立てるまで気持ちが休まりませんか。先帝に、悲願を達成したと墓前で報告するまで貴方の心は安らぎませんか。貴方は、これからも死ぬまでこのように走り続けるおつもりですか」
「・・・」
「貴方が休まらなければ、休まれない者も、いるのですよ」
疲れ切った子供をあやすように、温かく包み込む。淡くため息をつきながら見つめてきて。どうしてそこまであなたが辛そうなのか。どうしてあなたが泣きそうなのか。
「貴方が一時でも悩みから解放されている時間を、どうか、私に下さいませんか・・・」
火照った指がこちらの胸元に落ちてきた。そろり、鎖骨をなぞるようにして触れていく。微かに指は震えていた。
そのまま下がった指は腋をくすぐっていき、胸元は指の替わりに温かい舌でなぞられた。形を確かめるように動く舌先に思わず声が上がる。足を閉じようとして、やんわりと彼に押し戻された。
身体のあらゆるところを、少しかさついた指先でまさぐられ、柔らかく小さな舌でじっくりと舐められた。酒でまだぼんやりしているが、その痺れに紛れて彼が与えてくる愛撫に自分の気持ちが混乱した。どうして今自分は彼を跳ね返そうとしないのか。なぜか、彼には微かな安らぎがあった。子供を守ってくれる親のような、しかしそうではない、兄弟でも、愛する人でもなく、どちらかと言うと心知れた友人のような、淡白だが穏やかな安堵があった。
しかし、これは竹馬の友が愚痴を聞いてくれている訳ではない。彼は、自分を。
「どうか、罪悪感を持たないで下さいませ」
「・・・」
「貴方は今、私の心を休ませて下さっているのです。右将軍が、本当に一時だけでも、政を忘れ、敵を忘れ、苦しさを、辛さを忘れて下さってくれるのなら、私が安らげます」
「それは、方便」
「例え方便に聞こえたとしても、実際に私が心安らかになるのは事実です。そこに方便があるかどうかは関係がないことです」
「あなたは、ずるい・・・っあ」
「そうですよ。私は、ずるいです」
「・・・あなたは、ひどい」
「はい」
「・・・っ」
「息を、詰めないで下さい」
「あ、・・・っ」
いつの間にか耐えられなくなるほどまでに追いつめられて、彼の袖を乱暴に掴んだ。身を捩ろうとしても、足を閉じようとしても出来ないように身体を付けられて優しくゆっくりと愛される。夜の静けさが、また時間を長く感じさせた。
強く抵抗しようとすら思わないほどに、温かく穏やかに彼の慈しみは施されていった。こちらの奥まで癒そうと尽くす度に、彼が切なく東雲の吐息を滲ませた。それは自分の欲を果たしているのではなく、どこまでもこちらを想いながら息だけで泣いているのだった。
開いたままの窓からふわりと風蘭の香りが忍び込んできた。それが部屋に沈む墨の匂いと交じり、熱と交じり、練られ、窓の外へと逃げていく。
彼がこちらの頭を撫でれば、己の情けなさ、弱さ、不甲斐なさ、歯痒さ、忸怩の念が押し寄せてきて思わず呻吟が漏れた。
「貴方はなにも悪くありません」と、暁の碧落に歌う燕に混じって費禕は言い聞かせるようにただただひそやかに囁いた。

 



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