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鯉は嗤う

 

柄杓を掴む手が震える。力を入れ過ぎて爪が食い込んだ。
僅かに涙が出た後、小さくえずいた。何度もそうしていて、吐くことも出来ず胸の不快感が消えるのをひたすら待つしかなかった。
水を飲もうとして息が霞む。しばらく呼吸を整えていると吐き気は落ち着いたようで、口に水を含んでも戻さずに済んだ。それでも水は苦かった。
  
自分はあの人を抱かなくなった。抱けなくなったからだ。
見るまい見るまいと目を背けてきた己の気持ちが噴出してしまった日から、自分はあの人を抱けなくなった。震える手で握っていた刃。強張った指から滑り落ちた懐刀。抱き寄せた身体は細すぎた。首元の匂いを思い出す。
愛おしさと一緒にまた吐き気が襲ってきた。これは何かが不快で戻そうとしているのではない。嘔吐感は、欲だった。好きで堪らないという気持ちと、押し倒して全てを蹂躙したいという欲望が行き場をなくして自分の中を這いずり回っているのだ。身体の欲求だけは満たしてきたがそれが叶わなくなった今、その大きさを改めて知った。己の中に閉じ込めておくにはあまりにもそれは濃く、重く、凄烈で、果てがない。排出できない熱は指先を痺れさせ、腕を巡り、太腿を不必要に撫で、爪先を舐め、胃の腑を潰し、胸を焼いた。叫ぶかわりに水場でひっそりと吐いた。その度に力が入り、手のひらには無数の爪の痕が残った。あまりにも回数を重ねた為に手から血が滲み出した。このままいくと堕ちる、と感じた。
執務はあれからもずっと同じである。
自分は彼の傍で仕事をし続けた。あの人も常に変わらず涼やかであった。全てが始まる前も、その時も、今でさえ。何も変わらなかった。
ただ、自分はあれからまともに顔が見られなくなった。僅かに黒髪から覗く耳朶に視線を投げたり、筆先を流している手元に目がいく程度で、正面から目を見ることができなくなったのだ。笑うことも、できなくなった。それでもあの人は何も変わらなかった。手早く執務を捌き、自分に様々なことを教え、時には雑談で笑ってみせた。自分がこの人を無理矢理組み敷くようになってからもそのままで、自分が相手を抱かなくなり笑うことがなくなっても、そのままだった。
書簡に右将軍の署名をもらう間、傍に立ってぼんやりとその手元を見ていた。相変わらず、爪は薄く、美しかった。
  
「・・・っ、あ、やめっ」
白い肩を揺らしながら腰を上げた彼は弱々しく喘いだ。
この少年は、歳の割には身体が大きかった。
塞いだ気分を少しでも変えようと思いながら漢中の街をそぞろ歩いていた。露天通りをぶらつきながら、酒楼を覗き、どこに腰を落ち着けるか考えながら逍遥していると、暗い気分がそうさせるのか自然と陰った裏路地に迷い込んでいた。路上で生活をしているもの、病んだまま地べたに寝転んでいるもの、痩せた子供がそこここにいた。
湿った路地に、少年が立っていた。質素な衣服に身を包んだその男の子は、目元が子供にしては静かで、肉の薄い唇が品良さそうに彼を見せている。黒くまっすぐな髪を無造作にまとめているその姿は、誰かの幼い頃を想見させた。
思わず立ち止まってその子に目を取られていると、大柄の女性が隣に寄ってきた。
「あの子に興味があるのかい。ひさいでるよ」
さすがにそれはしない、と思った。まさか、自分が年端もいかない少年を買うなんて。
無言で踵を返したら、いつの間にか近付いてきた少年が腕を掴んできた。見ると睫毛の長い涼しげな双眸が僅かに甘く泣いたように見えて、いらぬ妄想をかきたてられた。腕を引かれて寂れた楼に入った自分は、外見の割にきれいに整えられた部屋へ半ば強引に押し込められた。
「その」
何かを言いかけて、言葉に詰まった。隣の部屋からは誰かの低い喘ぎ声が漏れてきた。男性の嬌声を間近で聞くいたたまれなさに戸惑っていると少年は所在無さげに立っているこちらの袍を脱がしてきた。その手を掴んで止める。いくらなんでも、と思う。
「僕のこと、お気に召しませんか」
「そうではない」
「だったら」
問答の最中にも手を進めてきた。さすがこれで糊口を凌いでいるだけあり、幼くても既に手管は立派なものだった。
はね除けるほどの意志も正義も自分にはなく、何を逡巡しているのかすら分からない己のものに彼の柔らかい手が触れてきた。身体が緊張する。
緩く肩を見せた少年特有の細い首筋が艶かしくうねった。彼はこちらのものを咥えて舌で転がすようにして弄りだした。息が詰まる。
「好きにして、いいんだよ」
口を離してこちらを見上げてきた。解れたまっすぐな黒髪が白い肩にかかって、彼を思い出させた。
自分でも馬鹿らしい妄想だと分かりながらも、ひとつの光景が想像された。あの人が幼い頃徐州から逃げのびる際にどこかで人買いに捕まり、こうして場末の楼に繋がれているのだとしたら。逃げる機会を窺いながら、震える唇で今自分のものをしゃぶっているのだとしたら。
己の愚盲さに目眩がする。
罪悪感よりも、結局欲が勝つ。あの人以外であれば男なんか抱きたくもない。ましてや子供なぞ、と思っていたことが滑稽になるくらい、自分は節操なしの男だと思い知った。
箍が外れるとはまさにこのことで恥も外聞もなく、道徳も理性にも目を瞑りながら、ひたすら自分は子供の身体を貪った。はじめは客がやっと乗り気になったと安心した様子だったが、少ししてこちらの欲が全く薄れない姿を見て微かに怯えたようだった。しかし、どうしても止められなかった。掠れた声で、ねえ、もうやめてよお、と懇願されると自分は彼の顎を掴んで「やめて下さい、だろう」と強要してから、己の果てない醜さにひとり戦慄した。
  
恐ろしい、と思った。
習慣というものは、慣れというものは、人をここまで変えるのかと。それも、望む望まぬに関わらずだ。
染み付いたこの感覚を身体ごと一緒に切り落とせるのなら、腕の一本位無くしてもいい、と思う程にそれは不快だった。
  
あれから彼は一切に自分に触れなくなった。
どうしたのだろう、と思った。少しして、もっと酷いことがこれから起こるのではないだろうか、と考えた。だが何事もなく、彼は触れてくるどころか、こちらと目を合わせることすらしなくなった。そこでやっと、ああ、彼は本当に自分に懸想しているのだと気が付いた。しかし、それを悟ってもまだ彼を信じきれなかった。害は為さないと思わせておいて油断し始めた自分を待っているのではないか。
そこまで考えて、さすがに被害妄想も極まれりと自戒した。無理矢理手篭めにされた生娘でもあるまいに。全ては自ら選んだ方法だったというのに、相手を責めるのは筋違いでもある。
夜が深くなっても執務室に居座る日々は未だに続く。
彼も時には遅くまで仕事をしているらしく、時々遅くでも書簡を持ってきた。こちらとしては出来るものは出来る時にやってしまいたいので、夜であっても提出してくれるのはありがたい。
そして、前は書簡を持ってくることを口実にしてそのまま腕を掴まれ、壁に押し付けられることがままあったが、それも今はない。
こちらが手早く内容を確認している間、彼は少し離れた場所に控えていた。視線が気にならない訳ではない。どこか気まずさを感じながら顔を下げてそちらを見ると、大概目に入るのは彼の逞しい手であった。
指先は少し丸っぽく、爪が大きいのが特徴である。大きく無骨に見える指は、意外と優しく動くことを自分は知っている。
その時の感覚が思い出されて不本意にも肌が粟立った。一体、何を考えているのか。
ざっと目を通した書簡に取り立てる不備はなく、自分は頷いた。それを確認した彼は一礼して退室していった。
唇を噛み締める。
何ということだろう。
あの指の感触がまだはっきりと自分の身体に残っているとは。押し付けられて、のしかかられて、蹂躙し尽くされたと思っていたが。気持ちでは完全に拒絶をしながらも、では身体は。それはもう、どう思えばいいのだ。自分の中で、どう扱えばいい。
気持ちでは嫌だと思っているから尚更、身体の僅かな疼きが余計に腹立たしかった。そして、一度それを意識してしまうと、忘れた歯痛が思い出した途端我慢ができなくなるのと同じで、こちらの意図に関係なく見たくもない顔を覗かせてくるのだ。
自分で慰めてしまえば、と考えてすぐに止めた。それは結局相手を欲していることと同じではないだろうか。
  
「近頃特にお疲れではございませんか」
そう声をかけられて顔を上げると費禕がいた。半ば哀れむような慈悲の目でこちらを伺うこの男こそ、本来であれば自分よりも疲れている筈である。抱えている執務量は比類無いほど多くある。自分も彼だからこなせると甘えて多くの仕事を投げてしまっているのだ。
「いえ・・・。少し眠れないだけです」
「お身体の方は問題ございませんか。今、右将軍に倒れられては困ります。国が傾きます」
「大仰な」
「冗談ではございません」
食い下がる費禕に思わず笑って、筆を硯に置いた。手を額に当てる。
「特に熱もありません。眠りが浅いだけです」
費禕が近付いてきた。
「私は貴方を信じておりますが、貴方がご自分の事を大丈夫だと仰るその言葉だけは信用しておりません」
そう言って自らの手で額に触れてきた。思わず後ろへ傾いた頭を逃さないように、後頭部にも手を添えられる。
「文偉」
熱を計るようにして額を触り、その後頬に滑り落ちてきて、顎を撫でてから首元へ。その感覚に思わず肌が緊張する。
「まあ、確かに熱はなさそうではありますが・・・」
呟いてから費禕がそっと顔を近付けてきた。予想外のことに驚いていると費禕が自分の手に視線を落としながら身体を離していった。
「単なる糸くずでした。羽虫でも付いているかと思いましたが」
自分の胸が跳ね上がったことにも、驚いた。一体自分は何を考えたのか。身体を近付けられるだけで緊張してしまう癖は、もう忘れた方がいい。
「・・・息が、浅いようですが」
「文偉」
費禕がこちらの口元に指で触れた。親指で静かに形をなぞる。ひとつ溜息を付いてから心配そうに顔を覗き込んできた。
「熱はなくとも、やはりどこかお身体が弱っていらっしゃるのではありませんか。顔色も一層白くなられて・・・」
「気のせいですよ」
よく見ると、瞳の色が少し薄い。睫毛が濃く、それが目元に影を落として憂いを帯びているように儚く映る。この優しい男は、自分が何か頼んだ時、どこまでその要求に応えてくれるのだろうか。
もし、万が一。
この身体に巣食う疼きを解いてくれと頼んだら、この男はどのように返すのだろう。
そこまで考えて己の恐ろしい妄想に震えた。自分の欲に、確実にそこにあるひどく醜い欲に、嘔吐感を覚えた。
心配そうな顔のままではあったが費禕も暇ではない。どうかご自愛を、と残して執務室を去っていった。
自分を抱きたいがあまりに半ば脅迫で迫ってきた後継者に、こちらからも条件を出して承諾したのは誰だ。虐げられていると思いながらも、結局は全て己の承諾のうちに受け入れていたのは誰だ。それで僅かにでも被害者意識があるのは、誰だ。そして、相手が自分に懸想をしてしまい、まともにこちらの目すら見られない、傷付いた若者に戻っていると知りながら、何もなかったように笑っているのは誰だ。何もなかったように笑いながら、その身体に持て余す疼きを飼っているのは、一体誰なのだ。
己に対する峻烈な怒りが沸き起り、傍にあった硯を弾き飛ばしてしまいたい衝動に駆られたが、まだ費禕が近くにいる事を思い出した。叫び出したい。何かを噛み殺すようにひとつ呻き声を漏らしながら、思わず一度机を拳で打ち付けた。鈍い痛みと共に、机に落ちた雫を見て今自分が泣いていることを、知った。
 

 

 

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