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鯉は嗤う

貧しい私邸に戻ると昼に言われた李厳からの嫌味がふと想起された。それと同時に、そうだ今日は母からの信を受け取りに行ったのだと思い返し、胸元から縒れた紙を取り出した。
誰もいないあばら屋。近くで虫が繰り返し鳴いていて、風でも通ったのか戸板が音を立てた。それ以外は何もない、静か過ぎる家に自分ひとりと母の信が手元にあるだけである。
運ばれてくる道中砂埃にあてられたのか汚れが付いていた。そこに浮かぶ、母の筆。己の、名。
開こうとして手が止まった。今すぐ読む事はないと言い聞かせ、気分を紛らわす為に井戸から水を汲むことにした。つるべを淡々と引いていると色々な事が頭をよぎっては霧散していく。汲んできた水を瓶に移し、それから碗に汲んで喉を濡らした。再度信を手元に寄せる。
痩せた、母の字。
老いた、母の字。
それを胸に当てて遠い母の面影を目蓋の裏に映しながらひとつ溜息を付いた。しばらくそのままでいてから、結局読まずにそっと櫃の中に潜ませた。
  
今度彼に出会したらどうしようとかと頭の片隅で考えながらも、忙しい日々は過ぎていった。
運が良いのか、何かの巡り合わせなのか、あれから一度も廊下等で見かけることはなかった。確かに執務内容が違うというのもあるのかも知れない。
今日もそんなことをぼんやりと考えながら廊下を歩いていると、前方に人だかりを見つけた。群れを作っているのは文官達である。その中心にいるのはどうやらあの人、だった。
あれからも度々夜に出向いて好きなようにしていたが、ここのところ自分も忙しかった為に足を向けられていないなと思いながらその人の横顔を遠くから見た。
気のせいだろうか。少しやつれたようだった。
それにしてもこれは何事だろうと、そちらへ行こうとしている文官に声をかけた。
「何か、あったのですか」
自分の問いにその文官は戸惑いを見せた。何か、良くないことでも起きたのだろうか。
「情報は武官達にも流して下さい。右将軍を補佐するのにも、そういった事は大切になってきますので」
そう言って口を促すと、文官は人だかりを一瞥してから小さな声で答えた。
「右将軍のご子息が・・・。諸葛喬殿が、今朝お亡くなりになったのです」
「・・・え」
「実はここの所ずっと病で臥せっておられまして・・・。しかし、快癒に向かわれずに、今朝・・・」
「・・・」
「それでは、自分も急ぎますので・・・」
会釈を残して文官は足早に自分の元から離れていった。
伯松殿が。
遠くて話の内容までは聞こえないが、文官達の言葉に時々頷き返している姿が見えた。違う文官が横から書簡を差し出してきたのを主簿が見て携帯用の筆と墨を開く。方々から言われる話を聞きながら廊下で立ったままでいくつかの署名を済ませていた。
騒がしかった。
しかし、その人の双眸はひどく静かだった。
喧々としている人の渦の中でどこかそこではない場所を見遣るように、穏やかな表情で顔を外へ向けた。その人が吐いた溜息だけが、静寂の中で響くひと鳴りの鈴のように見えた。
  
あれから一切伯松殿の話は出なかったし聞きもしなかった。もしかしたら、あの人自身が周囲に口止めをしているのかも知れない。
今日の執務も済ませ、暗い夜の中庭に目を向けるとそこにぼんやりと伯松殿の姿が思い出された。いつの日か、彼に思い切り殴られたこともあったのだった。父を護ろうとしてこちらを攻撃してきた彼はまさに牙をむいた狼だった。あの時までは特に関わる事もなく、遠目から見ていても穏やかで父譲りの物静かさを備えていた人物であったが、まさかその人がここまで激昂することがあるのかとひどく驚きもした。彼は病床で父と一体どんな言葉を交わしていたのだろう。
その父がいる執務室へ目を向けるとまだそこは僅かに灯りが残っていた。息子が死んだ日であっても、こんな時間まで執務をするものなのか。それとも、死んだ日だから、なのか。
既に宵も深く、誰の気配も感じられない廊下を音もなく歩いた。
彼の執務室の前に着いてから、しばらく息を殺して中の様子を伺った。人がいないのではと錯覚する程に物音がしなかったが、時折紙の音や書簡を巻いたりする音が聞こえてきて、やはりその人が中にいるのだということが分かった。
このまま帰ろうか。それとも。
逡巡してから、様子を見るだけだと自分に言い聞かせて扉を叩いた。
深夜の来客に驚いたのか、中でその人が動きを止めたのが感じられた。開けると警戒しながらこちらを見ていた。
「こんなに遅くまでお一人でいらっしゃいますと、いつか刺客に襲われますよ」
自分だと分かったその人は懐から手を下ろした。思わず懐刀を握っていたのだろう。そのまま無言で書簡に目を戻す。
文机にはいつも以上に書簡がうずたかく積まれている気がした。もしかしたら最近は早めに帰って自身でも看病をしていたのかも知れない。
「・・・」
この人は、私がご子息の件を知っている、ということを知らない。当然だった。恐らくこの人が口止めをしているのだから。
俯いている顔を見ていると、やつれた様子がより感じられた。この人こそ身体は大丈夫なのかと疑問になる。特に泣いた様子などはないようだった。勿論、悲しくない筈はないだろう。しかしそれもまだ実感が湧かない、といった感じなのだろうか。思った以上に取り乱している訳でもなくただただ疲労感が滲んでいるその人を見て、とりあえず今夜は「お忙しそうですから」とでも言って帰ろうと扉に触れた時だった。
「もう少しで、終りますから」
と、声をかけられた。
何と、言った。
背筋が寒くなった。振り返ってその人を見る。
この人は今、何と言った。
こちらに目を向けることもなく淡々と執務をこなしているだけである。
自分達が普通の関係であれば、今の言葉に不思議はない。だが、自分がこんな時間に彼の元へやってくるのは何も仲良くお話をする為ではない。理由はただひとつ。
それを。
いくら、自分がその事を知らないと思っているからとは言え。
言えるのか。
自分の息子が死んだ日に「執務はもう少しで終るので、抱くのはその後にして下さい」と、好きでもない男に言えるのか。人として。親として。
いや、言えるのだ。この男は。
なぜなら。
その向こうに、いるからだ。
自分の命よりも大切であろう、存在が。
その瞬間に、自分の中で何かが切れたのがはっきりと分かった。自分でも、まずい、と分かる程に何かが壊れた。
踵を返した自分は無言で文机まで行って、何の前触れもなくその上にある書簡から硯から筆から全てを問答無用で払い落とした。硯が床で割れる音が響く。墨が飛び散った。
驚いた顔でこちらを見てきたその人の襟首を掴み、強引に立たせてそこにある椅子を蹴り飛ばした。あまりのことに戸惑いながらこちらを伺うその人の首に口を落として舐め回した。乱暴に袍を脱がせる。冠も剥がして床に投げると歳を経ても尚豊かな黒髪が零れ落ちてきて、この人の匂いが辺りに散った。
夜中だからとは言え灯りがある執務室で裸にされるのは抵抗があるのか、最後の内袍を脱がそうとしたこちらの腕を掴んできた。しかし、それは無碍に払った。一糸纏わない姿にさせて机に腕を付かせた。腰を抱き寄せながら自分は床に膝を付いた。僅かに震える腰を両手で押さえてから、前にも触れずに後ろに舌を這わせた。
「・・・っ」
思わず身体に力が入ったのが分かる。それでも構わず二本の親指でこじ開けるようにして執拗に舐めた。ふと顔を上げると、机に突っ伏して背中を丸めながら震えるその人は息を詰めて静かに屈辱に耐えていた。また指で開くようにしながら舐めたり、指で中をかき混ぜるようにそこをゆっくりと慣らしていく。二本三本と増やしていき大分ほぐれたのを確認してから指を抜いた。異物がなくなったことに身体が安心したのか、ふと力が抜ける。立って、腰を掴んで自分のものを入れていった。
「く・・・ぅっ」
拳を固く握って行為に耐えているようだった。何度も抱いた身体である。どのように動かせば、どのように扱えば良く啼くのか、全て分かっていた。机で挟むようにして腰を強く打ち付ければ、その度に鼻にかかったような息を漏らした。声を出させたくて、胸元に手を這わせながらもうひとつの手を口へと持っていく。そうすると垂れた髪が掻き分けられて、その人が流した涙がぽたりぽたりと机を濡らしていくのが垣間見えた。
口に指を入れて舌を追いかけた。身体が大きい割に猫のように小さい舌は刺激に正直で、後ろを突かれて感じると小さくわななくのであった。
善がるようにして自分の指に絡まってくる舌をいじりながら、自分は顔を近付けてそっと囁いた。
「こんなに感じられて・・・。いやらしいと思いませんか、ご自身でも」
「・・・っん」
「ご子息が亡くなった夜に男に抱かれて、喘ぐなんて・・.」
その言葉に息を飲んだのが分かった。構わず腰を強く打ち続ける。口に入れている指を痛い程に噛んできた。それでも止めることはしない。握っていた拳が、更に固く結ばれたのが見えた。力を入れ過ぎて腕の筋が浮かんでいる。
「どんなお気持ち、ですか」
「・・・あ、・・・ゃ、あっ」
震えながら喉を仰け反らせて喘ぐと、長い黒髪が揺れた。前に手を滑らせるとそこは僅かに濡れていた。根元を強く抑えると首を横に振ってみせた。
「は・・・っ、あ、いた、ぃ・・・っ」
普段抱いている時でさえ出さない切羽詰まった声で、やめてください、と訴え出した。
ここまでされても尚この人は私を斬ることは、ないだろう。
それは同時に、お前は単なる人材なのだ、と言われているに過ぎなかった。
個人の感情で接してくれることはない。怒りであるとか、恨みであるとか、そういうことを感じるに値しない存在なのだと、言われているに過ぎなかった。
ここまでしても、尚。
自分は、この人の、なにものにも成れないのか。
別に愛して欲しいだとか、好きになって欲しいだとか、そんな贅沢なことは考えたことすらない。そうではなくて、せめて憎むだとか、嫌うだとか、そういった個人の感情を持ってもらうことすら、出来ないのか。
ここまでしても尚、この人には大切なあの人が。
自分の身体が震えた。落ち着いてからゆっくりと抜くと、自分が出したものがそこから足を伝って零れていった。その人は崩れるようにして床に膝を付いた。身体に力が入らないのか机の端を掴もうとしたが、手を滑らせてそのまま床に落ちた。
自分のもので太腿や足下を汚したその人は、ただただ疲れた顔をしながら床に黒髪を散らして静かに息をした。ひとつ大きく息を吸った時に、すうっと一筋涙がこめかみを濡らしていった。それを目にしたとき、また理不尽な怒りが湧き上がってきた。腕を掴んで上身を乱暴に起こさせる。思い切り頬を打った。
「・・・」
成されるがままのその人は、叩かれた頬を向けたまま溜息を付いた。
「どうして、です」
「・・・」
「どうして、そこまで。そこまでして、あの方を」
そんなこと、聞いても仕方がないのに。言っても仕方がないのに。
無表情のままでいるその人の肩を揺さぶった。
「どうして、ここまでされても、耐えるのですか・・・。どうして・・・」
理不尽なことを言っている。理不尽なことをしている。分かっている。
「どうやっても、どうあっても、私は」
貴方の目に映ることは、ないのですか。
例え。
僅かであっても。
「私は、憎い」
「・・・」
「貴方を、ここまで縛り付けている先帝の」
最後まで言う前に言葉が飛んだ。少しして、自分は殴られたのだ、と分かった。顎が軋む音がした。口の中を切ったのか、血の味がする。
そちらを向くと、その人がはっきりとこちらを睨んでいた。初めて自分がその人の目に映っているのではないだろうか、と思う程に。
先帝を通して、この人は初めて自分を見ている。しかし、それ以上でもそれ以下でもなかった。
それは、分かっていた筈だ。だから、身体だけが欲しかった。その人を抱いている時間が、欲しかっただけなのだ。それだけで、良かったのだ。だが。
「もう、嫌だ・・・」
呻き声が漏れていた。
もう嫌だ。
嫌だ。
  
自分は。
この人が、好きなのだ。
  
それを自覚してしまった瞬間に、自分は混乱した。見ないように見ないようにしてきた、その事実。それは例え存在していたとしても、自覚してはいけなかったのだ。
気が付くと自分は懐にある小刀に手を伸ばしていた。自分でもどうしてそうしようとしたのか分からない。だが、何故かこの人を殺そう、と思った。
先帝から解放してやりたい、と思ったのか。自分のものにならないのならば、いっそ、と思ったのか。自分が殺すことで、永遠に自分のものにしたかったのか。
その人は自分の手にあるものを見て、急いで床に散らばっている袍をたぐり寄せた。そこから懐刀を抜いた。普段人に刃など向けることのないこの人にとってその行為は恐ろしいものなのだろう。手が震えていた。抑えるようにもう片方の手で、懐刀を握っている手首を掴んでこちらに向けてきた。
それを目の当たりにして、自分は一体なんていうことをしてしまったのだろうと思った。この人を、殺す、なんて。なんて、ことを。
そう考えると、全てが本当に嫌になった。戦いも、日々も、この人のことも、無理矢理抱き続けることも、自分の気持ちも、気持ちを無視し続けることも、そして自分自身も、全て。全て。
相手に向けていた刃を、そのまま自分へと、向けた。
すると自分の刀を投げてから慌ててこちらの手を掴んできた。その顔を見て、ああ、今この人は純粋に自分のことを心配して止めてくれたのだと、言われなくても分かった。そうだ、こういう人だから、いくら自分のことを単なる人材だと割り切っていると分かっていても、どこか奥底にこういう部分を持っている人だからと知っているからこそ。
だからこそ。
「好きなんです」
持っていた小刀を床に落として、替わりにその人の手を取って口づけた。
安堵した貴方を、優しく抱き寄せて。
「愛して、います」
勝手だと分かっている。理不尽なことをしていると分かっている。こんなことを言う資格がないもの、全て分かっている。
それでも。
それでも。
言わずにはいられない。
  
貴方が、どうしようもなく。
どうしようもなく。
  
美し過ぎて。

 

  

 

 

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