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鯉は嗤う

「本当に、宜しいですよ」
「何がでしょう」
「評判です。貴方の」
近頃は時々こういった話をされる。評定が始まる前の雑談でそう言われたのであった。
あれから更に自分は執務の面で努力を惜しまなかった。武官としても文官としても自分を向上させる為には何でもしたし、毎日見たもの触れたもの聞いたもの全てを己の中に蓄えていった。蜀にとって役に立つ人間になること。唯これだけが、己が持つ交換材料でもあるからだ。自分からこれが失われたら、恐らく自分は首を刎ねられるであろう。
執務の能力以外にも蜀での文化や習慣をよく見聞きし、挨拶から礼儀、愛想、人柄、笑顔、そういったことにも細心の注意を払った。未だに自分の事を魏の間者と疑う者もいなくはないが、それも最近では大分減ってきたような気がする。以前は硬い対応しかしてこなかった人達が、大分自分に気持ちを開き始めている事を感じていた。
「以上で宜しいでしょうか」
背筋をまっすぐに伸ばしながら周囲を見渡すその人の双眸は微かな憂いを含みながらも美しく、いつ如何なる時でも見惚れてしまう。
「では、評定はこれまで。散会とします」
皆に目礼をしてから、流れるような動作で立ち上がり退室していくその人を、主簿が書簡を抱えて追っていった。
あの人が歩いていくと、風ですらそれを追っていくように見える。そして、あの人が去ると、心無しか部屋が少しだけ暗く見えるのであった。
ただただ、呆然とする程の気高さと尊さ。
あの人は何も以前と変わる所を見せなかった。執務の上ではこちらと目があっても一切表情を変えず、雑談をする際には笑って受け答えをする時すらあった。何から何までが今まで通りである。執務も、技術も、知識も、今まで通り全て惜しみなく与えてくれた。その驚異的な自制心はこちらまで圧倒され、執務に関しては純粋に自分も技術を高めたいという気概が働いた。自分の働きが認められればやはり心から嬉しいし、己の能力が何かの役に立つのであればそれは誇らしかった。それは男としての、単純な喜びである。
 
「私からの要求はふたつだけです。決して蜀を裏切らない事。そして、死ぬまで戦う、という事」
 
夜になれば、私はその気高い人を独占し、服従させる事が出来た。
覚悟は既に固めたようだった。時々羞恥の為か躊躇を見せる事はあっても、大概は抵抗をすることもなく淡々と執務をこなすかのように、常にこちらの要求に応えた。
服の脱がせ方から、肌の撫で方、口づけの仕方、全てをいちから教え込んだ。声を押し殺す癖があるので、口に指を入れて声は出させた。名前も呼ばせるようにした。今まで人に抱かれた事はないのか、初めての日はその人を泣かせるだけで終ってしまった。何回も数を重ねてやっと普通に抱けるまでになった。
その為か、当然人のものを口に含んだりした事もなかったようで、初めて舐めるようにと言った時はさすがに戸惑ったような目でこちらを見てきた。その時は教える意味も含めて、こちらから相手のものを口に含み、唇と舌でくすぐるように舐めていった。そのうちに太腿を震わせてきたので、その直前で止めてから「今のように、やってみて下さい」と言った。身体の中でのたうち回っているだろう衝動を解放する事を禁じてから「でなければ、ずっとこのまま、ですよ」と囁いた。熱っぽい目元でこちらのものを見てきた。頭の後ろに手を回してそっと自分の所に引き寄せると、その人は甘い息を漏らしながら髪をかきあげた。その時の色っぽさというか、艶やかさというのか、身体の底から震えが湧いてくるようなあの美しさは、今でもしっかりと思い出せる。
当初はただただ苦しさに耐えて呻くだけだった身体は少しずつ悦びに目覚め始め、そのうちにそれを抑え込まないと声や表情に出てしまうようになっていった。それだけは、最後の自制心が許さないのか、いつも隠しているようだった。しかしそうであっても、触れた時の僅かな震え、熱いうねり、身体は正直であるから分からない筈がなかった。いつかそれを伝えて、最後の自制心すら奪ってやりたいと思いつつ、まだ今は相手が必死にそれを隠している様を楽しもうと思っているのだった。
腕を縛り口に猿ぐつわを噛ませて人が通るかも知れない場所で犯した事もある。そのように苛める時は必ずといっていい程最後にはひとすじふたすじ、涙を流すのであった。
 
「怪我でもされたのですか」
「え」
陳震の目線は自分の手元にあった。どうやら昨夜きつく縛られた手首を無意識のうちにさすっていたらしい。
「あ、いえ」
と、咄嗟に袖で手首を隠してしまった。
「昨夜つるべを掴み損ねまして。その弾みに縄で擦ってしまったのです」
「ああ、確かに夜はそういう事もありますな。時にはせっかく汲んだ桶をうっかりまた井戸に落としてしまったり」
「ええ、そのようなもので。歳をとると夜目もきかなくなってきますから、尚更」
そう言ってから柄にもなく声を出して笑ってみせる。
「さて。確認も終りましたので、某はそろそろお暇させて頂きます。右将軍もあまり遅くまでお過ごしなさらぬよう」
「貴方までそれをおっしゃいますか。まるでうちの主簿のようですね」
「あの方は右将軍の事を心配されているのですよ」
「それは存じていますが・・・、この間は調べている帳簿を横から奪われて、どうして貴方がこんな細々とした仕事をしているのだと長々お説教ですよ。なぜここまで怒られているのだろうと、机の下で袖を指に巻いたりして遊びながら、親に怒られた子供の頃を思い出した程です」
「あはは。右将軍に説教とは、あの方の度胸には恐れ入ります」
「勿論、気持ちは嬉しいのですが」
「しかし、右将軍を心配してるのは主簿だけではありません。皆も、そして私も含めて心配しております。本当に、ご自愛を」
陳震は拱手をしてから退室していった。
その足音が遠くなり、聞こえなくなったあたりでひとつ息をついた。
「私も、陳震殿の言う事はもっともだと思います」
そろそろ掛けられるだろうと予測していたその声に、また溜息が出た。
「・・・姜維」
「こんな遅い時間にまで人が訪れて来るとは、思いませんでしたので」
「・・・」
陳震が来る前に、実は既に姜維が来ていたのだった。もう夜だからと言って半ば強引に抱きしめてきた彼と、まだ執務があるから止めてくれと問答している時に、鳴った扉を叩く音。咄嗟に姜維は書架の影に隠れたのだった。そこは燭台の灯りもあまり届かぬ場所であったので、陳震は気付く事なく退室していった。
近付いてきた姜維は、椅子ごと背中から抱きしめてきた。
「まだ、執務があります」
「もうこんな時間ですよ。待っていたら、朝になってしまいます」
そう言って懐に手を滑らせてきた。
「どうしたのです・・・。いつもは、待つのに」
「これほど夜は更けているのです。・・・もう、待てなくて」
指先で胸元を遊ぶようにくすぐられる。
「やめてください・・・っ。もし、また誰かが来たら」
「さすがに、もう誰もいらっしゃいませんよ」
いつの間にか袍がはだけていて肩が露になっていた。椅子の後ろに両腕を回されて袖をきつく縛られる。そうされると手が抜けずに、椅子に括りつけられる形となった。姜維の両手が身体中をまさぐる。どうする事も出来なくて、ただただされるがままになった。
手が下へと降りてきて、撫で上げるように触れられた。思わず身体が上ずる。
「・・・そんな、緊張されないで下さい」
「本当に、今夜は、もう」
執拗に弄られていると、自分でも身体が火照るのが分かった。思わず唇を噛み締めていると、姜維がもう片方の指を口の中に入れてきた。意味もなく舌を嬲るようにして追い回された。
「声、聞かせて下さい・・・」
そう言われて、強く指で擦られると「ん・・・っ」と情けない声が出た。こればかりは毎回慣れなかった。聞く度に、心底自分が嫌になる。どうして、こんな声が出てしまうのだろう。
「・・・あ」
「本当に」
「は、・・・いやっ」
耳の中を、音を立てながら舐められる。
「・・・いやらしい声、ですね」
思わず首を横に振ってしまった。そうしても、どうなるものでもないのに。
「もっと、聞かせて下さい・・・」
姜維の吐息が私の思考を犯していくようで、どうしようもない絶望感があった。この熱が、耳から私の中へと入って様々なものを壊していくのだ。
耐えなければ、という気持ちと、もう止めてくれ、という気持ちがいつも錯綜して、己の女々しさに嫌気がさす。
姜維が首筋や肩にも唇を落としてくると、弄られているのも相まって思わず身体が震えだした。
「も、う・・・っ」
またあられもない声が漏れた時に、突然響いた物音。
驚いてそちらを見ると、書簡を床に落とした喬が、いた。
この時刻だから来客もいないと思って伺いも飛ばさずに入ってきたらしかった。
燭台の乏しい灯りでも、顔が白くなっているのが見えた。
「・・・父上」
最悪だった。
早く離してくれと身を捩ると、何を狂ったのか姜維は更に手を進めてきた。
「・・・っ、な、何を」
「もう、見られてしまったのです。隠しても、仕方ないではありませんか・・・」
限界近くまで高められているせいか、少し撫でられただけでも吐息が漏れた。
もう、止めてくれ、止めてくれ・・・!
「ご子息も、こちらを食い入るように見ていらっしゃいますが・・・。宜しければご一緒に、いかがですか」
今すぐこの男を殴り飛ばしてやりたい。口から血が出るまで殴り続けてやりたい。しかし、括られた腕が軋むだけで何も出来ない。表情を一切変えず、ただぼんやりとこちらを見ていた喬が、無意識のように腰に佩いている剣に手を伸ばしたのが見えた。
「喬・・・!」
何も言わず、怒りもせず、泣きもせず、笑いもせず、無表情のまま、本当に遠くの景色を見ているかのような穏やかな表情のまま、抜き身の剣を持ってこちらに近付いてきた。
そうすると、耳元で微かに姜維が笑ったのが聞こえた。
 
誰かが呼んでいる。
「・・・父上、父上」
止めてくれ。もう、頼むから、止めてくれ・・・!
「父上!」
「・・・」
何に驚いたのか分からないまま、目が覚めた。しかし、咄嗟には声が出なかった。
「父上」
「・・・喬」
「寝所へと向かった足音が致しませんでしたので、もしやと思い覗きにきましたが、やはり。このような所で寝ますと、身体に良くありませぬ」
顔を上げると、身体が軋んだ。どうやら自分は書斎の机に突っ伏したまま寝てしまったらしい。竹簡の上に腕を乗せていた為か跡がくっきりと残ってしまっていた。動かそうと思ったが相当痺れている事に気がついた。納まるまでそっとしておくしかない。
いたた、と小さく呟いていると、喬がそっと手を伸ばしてきて、こちらの頬を拭った。
「なんだ」
「・・・泣いて、おられましたよ」
「え・・・」
驚きつつ自分も頬に痺れた手をやると、確かにそこは微かに濡れていた。涙の跡で頬が突っ張る感じが残っている。
喬の顔を間近で見ると、先程の酷い悪夢が思い出された。あれは、夢、だったのだ。そうだ、夢であったのだ。夢であって、本当に良かった。
しかし、あまりの内容に未だに心臓が落ち着かず、気分も最悪であった。例え夢であったとしても、実際に体験したかのような気持ち悪さがあった。
まだ寝ぼけているのかも知れぬと思いつつ、思わず変な事を聞いてしまった。
「・・・お前は、何か、見たか」
「・・・」
「見た、か」
「どのような、夢を・・・ご覧に」
「・・・」
「・・・」
「私は、何か寝言を呟いていたか」
そう言って喬を見遣ると、喬は僅かに目をそらしてから、優しく笑った。
「いえ、・・・いえ、何も」
それから、柔らかく抱きしめてきた。
「喬は何も見ておりませんし、聞いておりませんよ。どうか、ご安心下さいませ」
「・・・」
「急にどうされたのですか。まさか、実は父上、ひどいいびき持ちであったりとか。それが聞かれたかどうか、ご心配なさっているのでは」
そう言って笑ってから、身体を離してこちらの頭を撫でてきた。まさに母が子供にするように。息子にそんな事をさせてしまっているという事実に情けない気持ちになりつつも、正直気持ちが楽になっていくのを感じた。
「・・・なんだ、もしやお前、知っていたのか」
とおどけて聞くと、
「私は父思いでありますから、黙っておりましたが」
と返してきてまた笑った。
その穏やかな顔を見ていると、ああ、本当に自分はいい息子を持ったのだと痛感し、同時に胸が締め付けられる思いがした。
 
知らせが来ていると教えられ、取りに行くとそれは久々の母からの信であった。検閲もすでに済んでいた。係が渡してくる時に、複雑そうな顔をした。恐らく、こちらの心中を想っての事なんだろうと感じた。
それを懐に入れて廊下を歩いていると、向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。それがすぐにあの人の息子であると分かった。認識した途端に、以前殴られた左顎が疼くような錯覚があった。
相手もこちらに気付いたようだった。顔が強張ったのが見えた。お互いの距離が近付いてきて、目礼だけでも返そうとした所に、相手が立ち止まって声を掛けてきた。
「お話があるのですが、少し宜しいですか」
直感で、これは良くない兆候だと察したので「今、急いでおりますので」と返す事も考えたが、こういうのは放っておくと後で相手の感情が肥大して、それはそれで手が付けられなくなる事も知っていた。少しだけ逡巡してから「はい」とだけ答えた。
目配せで「こちらに」と付いてくるよう促した彼の背中を追っていくと、人気のない書庫に入っていった。
自分も入って扉を閉めると、彼が口を開いた。
「貴様、父上に何をしている」
表情と共に口調が一気に変わった。
「何を、とはまた。特に、何も」
「そらとぼけるつもりか・・・!」
「お待ち下さい。あまりにも唐突ではございませんか。全く、伯松殿の意図が掴めません」
そう言うと突然胸ぐらを掴まれて乱暴に壁に押さえつけられた。その弾みに壁で頭を打った。
「あれから、明らかに父上は何かに苦しんでおられる!貴様しか、原因はないではないか・・・っ」
「どうして、私、なのです。根拠のない言いがかりは、いくら伯松殿と言えど不敬に問えますよ」
「根拠のない?私が曖昧な理由で言いがかりをつけるとでも」
「・・・どういうことです」
胸ぐらを掴んでいる拳を、更にこちらの身体に食い込ませるように押しつけてきた。骨が鎖骨に当たって軋んだ。
「・・・あれから、父上は・・・」
口に出す事を躊躇うかのように一旦言い淀んでから、言葉を繋げた。
「時々、寝ている時にうなされるようになったのだ。・・・いや、自分が子供の頃から稀にうなされていらっしゃる事はあったが、あそこまで苦しそうではなかった。それに」
「・・・」
「近頃は・・・、貴様の名前を、口にするように」
「・・・」
「何故なのだ・・・っ」
「と、言われましても・・・。身に覚えがない事に、申せることは何も」
「まだ、とぼけるつもりか・・・!」
このままいけば殴り合いの喧嘩になる、と思った時に誰かが書庫に入ってきた音がした。そちらを見ると文官がこちらの様子に驚いて固まっているのが目に入った。それに対して彼が怒鳴った。
「見て分からぬか!取り込み中だ、後にしろ!」
何が何だか分からずに怒られて驚いている文官の後ろから、もうひとりが入ってきた。
「どうした、何があった」
李厳であった。
「・・・」
胡散臭いものでも見るような目つきでこちらを見てきた。
「悪いが、夕暮れの評定に必要なものがあるのだが・・・。そちらこそ、他所でやって頂けないだろうか」
さすがに中都護の李厳にそう言われて言い返せる筈もなかった。突き飛ばすようにこちらの胸ぐらを離してから、文官と李厳に非礼を詫びてそのまま書庫を出て行った。
しかし、今回はこれで終ってもまた絡まれる可能性があった。さて、どうしようかと考えた時に李厳に冷めた目で見られている事に気が付いた。
「若さとはいいものよ。この大事な時に無駄な労力を執務以外に使えるのだからな」
李厳の嫌味に、自分も頭を下げるしかなかった。書庫を出るまで視線がまとわりついてくるようで、それを振り払うように胸の中で大きく息を吐いた。

  

 

 

 
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