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鯉は嗤う

気が付いた時には池から引きずり出されていた。

急いで立とうとしたが水を含んだ袍が足に絡まってもたついている間に殴り飛ばされた。視界が一瞬白くなってから無意識に受け身を取っている事に気が付いた。人に殴られて肘を地面についたのはいつぶりだろうかと考えているうちに胸を蹴られてそのまま地面に突き倒された。息が出来ない。みぞおちを膝で抑えつけられる。身体を深く乗せられると吐き気が込見上げてきた。
彼が頭上に手をやった。拳を振り上げたのかと思ったが、留めていた髪がはらりと落ちたのが見えた。手には髪留めがある。
刺すつもりか。
脅しか、本気か。
振りかぶりもせずに無造作に刺そうとしてきたのを見た瞬間にこれは本気だと悟った。払おうとして腕に神経を集中した時、彼にあの人が抱きついたのが見えた。二人でそのまま地面に倒れこむ。みぞおちへの圧迫がなくなって、弱く咳き込んでからやっと少し息が吸えた。急に息をしたので、目の前が僅かに揺れた。
「喬」
半身を起こした彼はまだこちらを睨みながら怒りに唇を震えさせていた。
「喬」
「・・・許せません、絶対に」
「お前は勘違いをしている。彼は、池に落ちた私を助けようと」
「・・・」
彼は、一体いつから見ていたのか。何を見たのか。
説明に納得していない様子だった。警戒をしながら相手を見続ける自分を、彼も睨み返しながら不意に持っていた髪留めを投げつけてきた。腕でそれを払ってからそちらを見ると、彼は父に頬を打たれた後だった。解け髪のまま項垂れた息子の側で、父はそっと溜息をついた。
   
「さすがに、濡れたままで帰す訳にはいきません」
そう言って、その人は反対する息子を制して自分を部屋に通した。濡れた袍は脱いで、差し出された代わりのものに腕を通した。それは、微かにこの人の香りがした。殴られた頬は熱を持ったように未だに痺れている。
湯の準備を言いつけられるとまたも彼は反駁したが「寒くて仕方ないのです。お願いします」とその人が目を見て言うと、しぶしぶといった態で引き下がった。湯殿に行く前に、しっかりとこちらを睨み倒してから去って行った。
「湯を浴びてから、帰りなさい。・・・今日は、色々と迷惑をかけました」
そう言って自分も部屋を出て行こうとするその人の腕を掴んだ。逃がさないように、しっかりと。
強張った顔でこちらを見つめてくる。
池で自分の腕を必死に振り払っていた時の虚ろな目にどこか似ていた。何かを諦めようとしている目。しかし、まだ覚悟が出来ていないような、その双眸。
先程、自然に流れてきた涙を思い出した。
どうして、あの時自分は泣いたのだろうか。
それを考えると、どこかが小さく痛んだ。しかし、だからといって諦めきれるのか。これを。この、目の前にいる、この人を。
自分は、この人の幸せを望んでいるのではない。この人が、欲しいのだ。ただただ、欲しいのだ。この人を気遣っている場合ではない。そんな事をしたら・・・、全てが恐ろしくなって、何も出来なくなってしまう。
掴んでいる腕を思い切り引き寄せた。あ、と声をあげてこちらの胸にぶつかってきたその人を強く強く抱きしめた。冷えた身体だった。逃げようともがくが、挟まれた腕さえ簡単には抜けない程に固く抱きしめた。
それから左手でその人の口を塞いだ。指に擦れる唇の柔らかさと呼気の熱さに身体が疼いた。くぐもった声を聞きながら耳を舐めると、更に彼は腕の中で暴れた。構わずそのまま首筋にも唇を落とす。濡れた髪からは微かに土の匂いがした。右手は腰へと落として捩る身体を深く抱き寄せる。口を塞ぐ手を外させようとこちらの手首を掴んできたので、壁に押さえつけて更に動きを奪った。舌は首筋から鎖骨へ。鎖骨から胸元へ。飽きもせずそこを執拗に舐めまわしてから、音を立てて何ヶ所か強く吸った。その度にはだけた肩を震わせながら小さく呻き声を漏らしているのが分かった。鮮やかに色づいたそれを優しく舌でくすぐってから、口を塞いでいた手を外した。
「私は、貴方が好きです」
肩で息をするその人の耳元で囁いた。
「私は、貴方が欲しくて、欲しくて、堪りません」
「・・・」
「私のものに、なってくれませんか・・・」
そう言うと眉をひそめながら睨んできた。視線を受け止めながら、色づいた胸元を指先で撫でる。
「・・・この痕のこと、ご子息に耳打ちしてもいいですか」
それを聞くと微かにうろたえたのが分かった。
「やめて、下さい。これ以上、あれの心を乱す事は・・・」
「それに」
これを言えば、恐らくこの人は自分の手に落ちる。
「もし貴方が私のものになって下さったら、私も完全に貴方のものになります。貴方の願いを、全て叶えて差し上げます」
「・・・」
「貴方が誰かを殺せと言えば殺します。貴方が裏工作しろと言えばやります。貴方が従えと言えば逆らいません。貴方が裏切るなと言えば忠節を貫きます。貴方が死ねと言えば、死にます」
例え、下衆だと嗤われても。
「全て、ご随意に」
何を言われても、何を思われても、何をされても構わない。この人が、自分の腕の中にいてくれる僅かな時間さえ、手に入るのならば。
だが、何を馬鹿なと目の前の狼藉者を斬り伏せるのが常道だろう。大声を出して息子を呼び、それから不敬の罪で糾弾すれば事足りる。
しかし、この人はそうしない。声を、上げない。
もはや無表情のまま、しばらく考えてから静かに「・・・分かりました」と呟いた。
遂に落ちた、という喜びと同時に、この人が誰を想って自分の要求を呑んだのか想像がついてしまい、何かが胸につかえた。
それを振り払うように腕の中にいる人の口を貪った。まだ無意識のうちにもがいてみせるが、先程のような強い抵抗はしてこなかった。
散々味わった後に、一度顔を離してから囁いた。
「・・・どうか、丞相からも口づけを頂けませんか」
少し何かを考えるように黙ってから、静かに口を寄せてきた。それこそ唇が触れるだけのような口づけ。
優しくその顎を指で掴んで少し離させてから「出来れば、舌を・・・、こうやって」
「・・・っん」
中を舌で探ってから、最後に震えるその人の舌を吸った。
「吸ってみて下さい」
「そんな」
「意味が、分かりませんでしたか」
自分が今誰のものであるのか、その意味が分かっていますか、という意味を込めてそう聞いた。促すように濡れた唇を指先で撫でる。含まれた意味を理解はしているようで、何度か小さく躊躇しながら唇を合わせてきた。
どうやら本当にこういった事は苦手であるらしく、全てがぎこちなかった。動きが固い舌を可愛いと思いながら耳の後ろあたりを柔らかく撫でると鼻にかかったような声を漏らしてきた。そのままうなじを遊ぶと、分かるか分からないか程度の力でこちらの舌を吸ってきた。上手いとか下手であるとか、そういった事以前に、この人が自分の要求に懸命に応えようとしている事に胸が熱くなった。
少しすると口を離してからこちらを伺うように目を向けてきた。これでいいのか、と聞いているのだろう。唇を耳に触れさせながら「まだ、あまりお上手ではございませんが・・・、今日はこれで充分です」と吐息と共に吹き込んだ。
未だに身体が強張っているその人の頬を指でなぞっていると、廊下から足音が聞こえてきた。恐らく湯が整ったのだろう。
それを聞いた腕の中の人は、咄嗟に自分を突き飛ばす様にして部屋を出て行った。まさに入れ替わるようにして反対側の扉から息子が入ってきた。
「湯が・・・、・・・父上はどちらに」
「先程、部屋を出て行かれました。どちらにいらっしゃるのかは分かりません」
そう言った私を汚いものでも見るようにして「湯を浴びたら、さっさと消えてくれ」と身体を拭くための布を足下に投げ捨ててから部屋を去って行った。
    
ここに来てから、どのくらい経ったのだろう。
喬が部屋に入ってくると察した瞬間、彼を突き飛ばして出てきた。喬が普段からあまり立ち寄らない自分の書斎に籠ってから、全く動けなくなってしまった。座るでもなく、はだけた袍を胸元にかき寄せながら、ただ呆然と立ち尽くしていた。
抱きしめられた感触。口づけられた感触。自分の身体を這う唇。自分から舐めた相手の舌。自分の口から漏れた情けない声。思い出したくなくても、どうしてそれが出来ようか。どうしてそれらが忘れられようか。
どこかで、こうなる可能性もあるだろうと考えていたし、最悪そうなるだろうとも思っていた。いや、恐らく自分の中ではどこかで決意をしていたような気もする。
街亭の失策の後、目的の為にはなりふり構わないと決めたではないか。命を取られる訳でもなし、これ以上何を失うというのだ。
もし、自分に誇りがあったとしても、それが一体何の役に立つのか。一体何の為になるのか。もしそれを代替として得たいものが得られるのであれば一体何を躊躇する。
そう己を叱咤していると、隆中にいた頃、他の司馬徽門下生達と議論をしていた頃の事が思い出された。
「銅臭の輩は無能なのだ。だから、地位を金で買うしかない」
そう言ったのは誰だったのか。紛れもない己ではないのか。ましてや、金ではない、もっと低俗なもので人を買おうとしているではないか。
しかし、それを恥と思う気持ちさえ既に自分には不要なものなのだと言い聞かせる思考に、先程の己の漏らした吐息が重なり、苛立ちと混乱は抑えられない程に高まっていた。叫び出したい欲求を飲み込み、机上に積んである書簡を払い落としたい衝動を抑え、自分に許したのはただただ噛み締めた口から溢れる小さな呻きだけである。もし今、喬が同じ屋根の下にいなければ叫んでいたかも知れないし、周りにある物を気が済むまで壊していたかも知れない。しかし、今はそれも出来ない。そして、変なところで妙に冷静な自分につくづく嫌気がさす。自分はきっと、狂う事もできやしない。
ふと、急に誰かが自分の肩を叩いてきて、一瞬息をする事を忘れた。
「父上」
いつの間にか喬が後ろに立っていたのだった。
「喬・・・」
「・・・父上、血が」
喬が私の手を取って両手で包んだ。いつの間にか怪我をした場所に思い切り爪を立ててしまったらしい。塞がりかけた傷がまた開いたようだった。
喬は身体を拭くために持ってきた布をちぎり、しばらくそれで傷口を強く抑えてくれた。それから細く破った布を手早く巻く。
彼の横顔をぼんやり眺めながら、この子は、一体どこから見ていたのだろうか、と考えた。確認したいが、それはあまりにも恐ろしくて聞く事が出来ない。
「あの人は既に湯を浴びてお帰りになりました」
「そうですか」
「父上」
「・・・」
「私は、あの人が父上を助けようとしただけだとは思っていません」
「・・・」
「・・・」
「湯を、もらいます」
そう言ってこの話を切り上げようとしたが、喬はこちらの腕を掴んで見据えてきた。
「父上」
「この話は終わりです」
「父上が望まれるならば、私があれを斬ってきても良いのですよ」
「お前・・・」
ここで自分が頷けば今からでも剣を掴んで姜維の後を追って行きそうな目をしていた。この子の、こんな恐ろしい表情を見たのは初めてだった。そして、自分がこの子を怖い、と思ってしまったのもこれが初めてだった。
「馬鹿な事を。口を慎みなさい」
「父上こそ、ご自分の事を分かっていらっしゃらない」
「・・・」
「ご自分が、どう見られていらっしゃるのか・・・」
「自分が一国の宰相だと言うことはこれでも自覚しています」
「そういう事ではございません・・・!」
急に喬の声が大きくなったので驚いてしまった。そして何を思ったのか、喬は私を強く引き寄せて抱きしめてきた。先程の姜維の行動が思い出されて身体が強張る。
「喬」
「父上は」
「・・・」
「父上は、昔から本当にほんとうに、・・・ぎて」
最後の言葉は余りにも小さく、聞きとる事ができなかった。
「私は、・・・叶うのならば、いつも傍で父上をお守りしたい程です・・・」
そう言って、何故か喬はすすり泣き出してしまった。それには本当に驚いた。小さい頃から聞き分けが良く、泣く事も怒る事もさして見せてこなかったこの息子が、今日は放っておけば人を殺してしまうかの如く怒り、そして今は自分の肩で泣いている。
「ありがとう。・・・お前は、考え過ぎなのだよ」
静かにそう言った自分を、さらにきつく抱きしめてきた。息子が泣き止むまで、しばらくそのままでいた。
こうする以外に、一体自分に何ができたというのだろう。

    

   

    

   
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