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鯉は嗤う

ふと廊下を歩いていると楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
殿が関羽殿や張飛殿と中庭で楽しそうに話をしている。
「殿」
ああ、殿がいらっしゃる。そうだ、編成の件でお聞きしたい事があったのだ。
廊下から石畳を踏んで中庭に降りようとした時に何故か足を絡ませて転びそうになった。腕から飛び出そうになった書簡を慌てて掴もうとした。

  

ふと廊下を歩いていると楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
殿が関羽殿や張飛殿と中庭で楽しそうに話をしている。
「殿」
ああ、殿がいらっしゃる。そうだ、編成の件でお聞きしたい事があったのだ。
廊下から石畳を踏んで中庭に降りようとした時に、あれこれは先程見た景色と酷似しているな、と思った。
先程はここで転ばなかっただろうか。
よく分からないまま、慎重に足下を見て石畳を降りた時に何故か強い衝撃を感じた。
何だろうと思ってふと目をやると一本の矢が自分の胸に深々と突き刺さっていた。
どうしよう。このままだと死んでしまう。そう思って無我夢中でその矢を掴んだ。

   

ふと廊下を歩いていると楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
殿が関羽殿や張飛殿と中庭で楽しそうに話をしている。
「殿」
ああ、殿がいらっしゃる。そうだ、編成の件でお聞きしたい事があったのだ。
廊下から石畳を踏んで中庭に降りようとした時に、あれこれは先程見た景色と酷似しているな、と思った。
先程はここで矢に打たれなかっただろうか。
これは周囲を確認してから行った方がいいなと思い周りを見渡すと、先程までそこにいらっしゃった殿や関羽殿張飛殿が姿を消していた。
どこに行ってしまわれたのだろう。
「殿?」
呼ぶと、それが谺となって自分に返ってきた。
それが何度も何度も反響して返ってきて、音が重なりやがてそれは自分を批判する政敵達の囁き声となっていった。
違う。
思わず耳を塞いでしゃがみ込んだ。それでもひそひそと自分を悪く言う声は直接耳の奥に響いた。
では、どうしろというのだ。
あのまま北伐していなかったら今頃漢中成都は曹魏に攻め落とされていた。
馬謖は実践につかせないといけなかった。街亭は比較的守る事が容易な要地だったのだ。だから、王平をつけて、守らせて。
どうしろと。
あれだけの損害を出しておいて、処断しない訳にもいかなかったのだ。
どうしろと。
どうしろというのだ。
荊州喪失。関羽殿の死。そして殿の死。馬謖の死。
帝位簒奪を企てているという噂話。諸葛王朝を作ろうとでも思っているのかと柱の後ろで囁かれ、その声が今度は曹魏からの降将姜維の処遇を語り出す。
もうこれ以上何も聞きたくない。
耳を塞いだまま、ただただ歯を噛み締める。

  

なぜだろうか。
なぜ、胸に矢が刺さってないのだろうと不思議に思い自分の胸を手で触った。服に血は付いていないし、傷もない。治ったのではない。まったく矢傷が無いのである。
それから耳の奥がざわざわするのを感じた。
意味が分からずしばらく周囲を見渡してから、間抜けにも、ああ自分は夢を見ていたのかとやっと気が付いた。
内袍が肌に張りついた。重くなる程に汗をかいていたらしい。背中の部分は絞れば汗が滴り落ちそうだった。
隣に目をやると、姜維は朝の鍛練の為か既にその場にいなかった。
そうだった。
今日は朝方まで寝付けなかったのだ。
理由は、分かっていたし、考えても仕方がなかった。やはりそうか、と冷静に思う以外にどうしようもなかった。

   

それからしばらく漢中は夏を目前としているのにも関わらず寒さ続きであった。
これが作物の収穫に響かないといいのだがと思いながら空を見上げても中々陽は顔を出してくれるものではない。
その日はしばらく主簿と戸籍書類について長く打ち合わせをしていた。
戸籍は同時に兵糧の数である。漏れがあればその分徴税が減る。徴税を嫌がって戸籍をごまかす者も少なくはないので、それをどのように取り締まっていくかという話し合いを先日費禕達と済ませていた。今日はその決定した内容をどのように書簡に落としていくかという打ち合わせだった。
お互い傍に置いてあった白湯もとっくに切らし、それでも思わず碗を掴んでからそれが空だった事を思い出した。
「これは、失礼致しました。すぐにお持ち致します故」
「いえ、私が行きます。貴方はこのまま筆を進めてもらえますか」
「ですが」
「ずっと座っていて身体が痛いのですよ。歩けば少しでもほぐれるでしょう」
それならば、と主簿が浮かしかけた腰を下ろした。
今度は白湯を淹れた鉄急須ごと執務室に持って来てもらおうと思いながら、自分が使っていた碗に主簿の碗を重ねて持ってから立ち上がった時に、違和感を持った。今まで感じたことのない、目眩とも違う何か。
ふらついた身体を支えるように咄嗟に机の角を掴んだ。
その動きに主簿がこちらを見た。
「だ、大丈夫ですか」
「え、ええ。私も大分歳ですね」
そう言って弱った足腰を笑ってから歩こうとして、何かがおかしいと思った。
歩いている筈なのだが、歩けていない。それどころかどうやら後ろに下がっているような感覚さえあって、また慌てて机の角を掴もうとして手が滑った。いや、そもそも触れてもいない。
「丞相」
主簿が血相を変えてこちらに走り寄ってきた。
何を慌てているのか主簿は丞相、と前の役職で呼んできた。大袈裟ですね、と笑おうとして声が出ていない事に気がついた。
主簿が自分を抱き起こしながら何かを叫んでいる。どうして、どうして主簿の服に血が付いているのだろうと思っていると、自分の手が目に入った。どうやら、碗を落として破片が刺さっているらしかった。なんだ、自分の血か。だったら、大した事はない。
そうしているうちに、驚いた顔をしたもうひとりの主簿と姜維が扉を蹴破る勢いで入って来た。
別の主簿はこちらを見てすぐに外へ出て行った。
姜維はどうしたのだと主簿に問いつめていた。
姜維、主簿は何も悪くないのですよ。
そう言おうとしても声が出ない。
姜維が奪うようにして自分を主簿から離させ、典医を呼んでくる様に聞いた事もない声で怒鳴っていた。
皆、大袈裟ですよ、と思った所から覚えていない。

   

姉上は「亮は本当にだらしがないんだから」と言っては、自分が熱を出して寝込んだ時に濡れた布で顔を拭いてくれた。
ごめんなさい、と消え入るような声で言うと、自分の説教が功をなしたと分かって満足したのか「分かればいいのよ。今度は熱なんて気力で吹き飛ばしてしまいなさい。いい、貴方は諸葛家の家長なんだからしっかりしなさいよね」
あれ、と思った。諸葛家には兄上がいらっしゃるではないか。
それを言うと、急に姉上の顔が悪鬼のように赤くなった。
「何を言うの貴方は。諸葛家の家長は貴方よ。兄なんていないわ」
そんなはずはない。よく、ほら、私達の為に庭の柿を取って下さったじゃないか、と言うと急にもの凄い力で姉上が私の首を絞めてきた。
「聞き分けが無い子ね。もう少ししたら貴方の弟が生まれるのだから、その子に家長になってもらいましょうか」
苦しい。止めて姉上。
必死になってもがいていると、姉上の後ろから喬が血相を変えて出てきた。
お止め下さい、義姉上。どうか、どうかもう、と言いながら喬が姉上の手を私の喉から剥がそうと必死に抗った。

  

「丞相、丞相」
「・・・」
「ああ、気が付かれましたか・・・。ああ、本当に、良かった・・・」
なんだ、本当に喬がそこにいる、と思ってから何かが違うと思った。
「随分とうなされておいででしたので、なんとか目を覚まして頂かないとと思ってしまい・・・。お休みの所申し訳ございませんでした」
自分の顔を覗き込んでいるのは姜維だった。
状況が飲み込めず何度も瞬きをしてから身体を起こそうとして、姜維に止められた。
「今はどうかお休み下さい。ここは丞相の自邸でございます」
「私の?」
「はい。覚えていらっしゃいますか。昼過ぎに丞相が執務室で急にお倒れになって・・・。典医の診断も済んでおります。彼が言うには過労と睡眠が足りていらっしゃらないからではないかと・・・。近頃、寝付きはよろしくありませんか」
自分が、倒れた。どうもその時の事が思い出せない。
額に張りついた髪をかきあげようと上げた右手を見ると布が巻かれていた。
「ああ、それは、倒れた際に割れた碗の破片でお怪我なさったのです」
そう言われると。
うっすらとその時の事が思い出されてきた。
「・・・戸籍書類はどうなりました」
咄嗟に口をついて出てしまった問いに、さすがに自分も場違いだったと思い直して恥ずかしくなった。
一瞬何を聞かれたか分からなかった姜維がきょとんとしながらこちらを見て、すぐに思い当たってからあははと笑った。
「それはもう、滞りなく。ご安心下さいませ」
「そうですか・・・。明日彼らにも謝らないと・・・」
「何をおっしゃいますか。とりあえず今はお休み下さい」
「貴方にも迷惑をかけました・・・。私を送って下さったのですか」
「はい。主簿の方達は急ぎの執務があるようでしたので、僭越ながら私が」
「そうですか・・・、ありがとう。喬を呼んでもらえますか」
「いえ、今ご子息はここにはいらっしゃいません。また右将軍府にお戻りになりましたよ」
それを聞いた時に、心がざわついた。
という事は今は彼とここに二人なのか。
喬が遠征や調練に出ていない時以外は家人は雇ってはいない。普段は大体喬がやってくれるし、いなかったらいなかったで自分で済ましてしまうからだ。屋敷全体の清掃や庭の管理はその時だけ臨時の家人に来てもらうだけである。
「そう、ですか」
「私は水を汲んで参ります」
そう言って姜維は桶を掴んでその場を離れていった。
彼と二人。
それ以上でもそれ以下でもないのだが、今は色々と考えたり神経を使ったりするのには疲れ過ぎていた。何かがある訳はないと言い聞かせながら、しかしもうこれ以上考えるのは嫌だという思いが拮抗していた。
気が付くと寝台を降りて庭に出ていた。
そうだった。まだ、執務を残していたのだった。
馬車を呼ぼうか、喬はどこにいるのだろうと思ってから、そうだった今いないのだったと思い出して、馬を引いてこようと厩に行こうとした時に、井戸から戻ってきた姜維と出会した。
「丞相・・・」
自分の姿を見て彼が血相を変えた。
「どうされたのです」
「右将軍府に」
「・・・沓も履かずに?」
「もう立てますから。大丈夫ですから」
「お、お待ち下さい」
腕を掴まれそうになったので、思わず後ずさった。そうすると更に慌てた様子の彼を見て、こちらも気持ちが焦った。早く、右将軍府に行かないと。
そう思って後ずさると視界が急変した。
姜維の叫び声を遠くに聞いた気がして、それから聞こえたのは水の音。
水の音?
「丞相!」
顔に水がかかった。溺れる、と思って夢中で手足を動かすと、姜維がこちらの手首を掴んだ。思わずそれを振り払った。水を含んで袍が泥のように重くなった。自分は後ろにあった池に倒れ込んでしまったらしい。思ったより池は浅く、底に腰が着く位であった。彼の手を借りずに自力で這い出ようとするのだが、なにぶん袍が重過ぎる。
「丞相。落ち着かれて下さい。どうか、丞相」
寒い、と思った。そうだ、ここの所妙に寒かったな、と思うと身体がやけに震え出してきた。池から引きずり出そうとする姜維の手をもはや無意識的に振り払って抗っていると彼も池に入ってきて、自分と目線を合わせるように膝をついてから、こちらの腕を掴んで揺すってきた。
「丞相。お願いです。身体が冷えてしまいます」
ますます自分は慌てた。身体の震えが止まらない。姜維はこちらの腕を強く掴んだままだ。
「丞相」
半ば叫ぶようにして姜維が呼んだ。
驚いて彼の顔を見ると、そこには泣きそうな双眸があった。
「・・・申し訳ございません」
気が付くと強く抱きしめられていた。まずい、逃げなければと思った時に、彼の顔がすぐ目の前にあった。頭が動かない。後頭部に手が当てられているようだった。
顎辺りに何か生暖かい雫が落ちてきた。それが姜維の涙だと分かった後に、彼に口づけられている事に気が付いた。
もがく身体を包み込む様にして抱きしめてくる。
唇を柔らかく吸われてから、彼がそっと口を離した。まだ涙を流している。
なにを、と言おうとして口を開けかけた時にまた口づけられた。後頭部にあった手が顎にいつの間にか降りてきて掴まれる。息を吸おうしたところを今度は舌をそっと吸われた。
「ん」
思わず漏れてしまった自分の声に恥ずかしくなった。一体なんという声を出すのか。
優しく慰めるように姜維の舌が絡まってきた。舌の腹をゆっくり舐められると思わず身体が小さく疼いて火照りを感じた。
どうしたのだろう自分は、と思っているといつの間にか姜維がこちらに重心を傾け過ぎてきて、それを支えきれなくなった自分は彼に抱きしめられたまま後ろへ倒れ込んでしまった。慌ててぬかるんだ底に手をついて半身を起こした。口には泥が混じり、咳き込むように吐き出した。先程から理不尽な乱入者に驚きっぱなしの鯉が狂ったように尾を水面に叩き付けて暴れている。
姜維も手を泥底についてから、まずは自分だけでも立ち上がろうとした時。
「・・・父上」
急な声に驚いてそちらを見ると、喬が放心したような面持ちで立っていた。

 

    

   

    
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