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鯉は嗤う

それが、まさに昨日の事である。
先程から姜維の視線を必要以上に感じてしまい、筆先が変に擦れてしまう気がしてならない。
「昨晩は良く眠れましたか」
と髪を結ってくれた喬が今朝静かにこう尋ねてきた。
「父上を悪酔いさせるなんて一体誰でしょうね・・・」
喬は誰かが執拗に酒を勧めてきたのだと思っているらしかった。素直な発想を微笑ましく思ってから「無駄な事は考えず、お前は与えられた仕事をちゃんとなさい。髪をありがとう」と言ってそそくさと自邸を後にしてきたのだった。
「昨晩は良く眠れましたか」
「え」
思わず筆を滑らせてしまった。
「あ」
「・・・どうされましたか」
そうして姜維がこちらの右手に触れてきた。顔を覗き込まれる。喬と似た年齢の青年。全く同じ事を聞かれて動揺した。昨日見てしまった光景と喬が交錯して見える。息が、詰まる。
「孔明様・・・」
普段呼ばれない字で呼ばれて、手のひらを指先でそっと撫で上げられた気がした。咄嗟に手を引っ込めてしまった。
「・・・」
「・・・」
姜維が不思議そうにこちらを伺っているとも見えるし、面白がってこちらを見ているとも思える。いや、いくら何でも考え過ぎか。
・・・そうだろうか。
違う。目を反らそうとしているのか、自分は。どちらから。どちらの事実から?
「すみません。・・・疲れが取れていないのかも知れませんね」
溜息をつきながら腰に差してあった書刀を抜いた。筆を滑らせた箇所を書刀で削っていく。
その間もずっと視線を感じた。いや、相手はただ自分の作業が終るのを待っているだけだ。自分がそう指示したのだから。気にし過ぎているのだ、自分は。
費禕からの書簡に返事をしたためて、内容を確認してから書簡を手早く巻いた。それを姜維に手渡す。
「お待たせ致しました。これを」
「畏まりました。・・・それにしても、昨晩はあまりお眠りに」
「・・・書物を読んでいたものですから」
「主簿の方も心配されていらっしゃいました。この頃は特に働き過ぎでいらっしゃると・・・」
そう言ってこちらを見てくる彼の表情は紛れも無く人の事を心配してくるその表情だ。しかし、これもまた昨日の喬と重なって見えてしまい、思わず目を背けてしまった。
「彼が心配性なだけですから・・・」
そう言って近くにあった書簡に手を伸ばして広げた。そうしていればそのまま出て行くだろうと思ったのだが、自分が渡した書簡を持ったまま彼はそこにいた。
「・・・どうしました。まだ何か報告が」
「いえ、その」
いつも溌剌とした彼にしては珍しく口籠ってみせた。
「その、非常に差し出がましい事だと言うのは重々承知なのですが・・・、先日お話頂きました兵法のご教授の件、いかがでしょうか・・・」
それを聞いた瞬間に、しまったと思った。
というのは、数日前に姜維と同衾で兵法の教授をする約束していたのだ。忙しさにかまけてすっかり忘れていた事もいけないが、まさかその後にこんな事になるとは思いもしなかったのだから、当然気軽に承諾していた。
正直、今の時点で彼と同衾する事は躊躇された。こんな事で戸惑うのも女々しいとは思うが、それが率直な感想である。かといって、先延ばしに出来ないかと言い訳を考えている最中に「後日設けられている模擬戦に向けて兵法を教えて欲しい」という要求だったのを思い出して、それも無理かと思考が行き詰まった。
どう返答しようかと考えあぐねていると、姜維が拱手しながら言ってきた。
「も、申し訳ございません。ご多忙でいらっしゃるのに、こんな差し出がましいお願いを・・・。失礼致しました。自分で書物を調べます故」
それがどことなく無理をしている笑顔に見えてしまい、胸が痛んだ。
そうだ、彼は純粋に師としても自分を仰いでくれているのだ。自分が当時学問の徒であった頃の事を思い出した。司馬徽先生も忙しい方で、先生の私的な講義は滅多に聞けるものでは無かったが、上手く時間があった時に思う存分議論が出来た時の喜びを思い出した。どことなく、自分の中で姜維をまだ信じている気持ちも十分にあったし、昨日の事を無かった事にしてしまいたいという気持ちも無意識に働いたのか「いえ、約束は約束ですから。今夜、業務が終った後に部屋に寄りなさい」と思わず返してしまっていた。
自分の心の底に、彼という有能な臣下を、ましてや自分の派閥にしっかりと入っている臣下を失いたくないという打算もあった。そんな己の卑しい心に吐き気を感じながらも、しかしこれもまた先帝の悲願達成の足掛かりのひとつと考えれば、それすらも瑣末な事柄にしか思えなかった。
そうだった。自分の事なんてどうでも良かったのではないか。何を今更。
その言葉に嬉しそうに笑った姜維は「有り難うございます」と爽やかに再度拱手をしてから立ち去って行った。
どうして自分はまともに人ひとり繋ぎ止めておけないのか。
勿論外からは「後継者と言えばご子息様がいらっしゃいますでしょう」とよく言われるが、喬を自分から後継者として推す気は全くなかった。喬に圧倒的な能力と人望があり、自他共に認める逸材であれば何の問題もないが、やはりそこまでとはいかない。それであれば一臣下として身の丈にあった仕事に邁進させる方が周囲の為であり、何よりあれの為でもあった。こればかりは本当に為政者としてより、父として最大限考えた措置であった。逆に周囲が喬を持ち上げようとしても阻止する気ですらいる。あの子にそれは残酷過ぎる。
そうして、最終的に考えるのは姜維の事である。
例え道から外れている方法だったとしても、せめてひとり、ひとりだけでも強く繋ぎ止めておければ。
殿の描いた世の為に自分が死んだ後も闘い続けてくれる筈である。自分が万が一殿の悲願を成し遂げられなかった時、自分の最後の仕事は同じ志を持った後続を作る事である。それを考えれば何も迷う事はない、と自分に言い聞かせながら書簡に目を落とした。

  

母は、小さい自分を膝に乗せながらすり切れた書物を広げて読みきかせてくれたものだった。
乾燥して白っぽくなっている指で色々な箇所を指しながら説明をしてくれる母は美しく、たおやかに見えた。自分をひとりで育ててくれた母。
母が作る食事はどれも美味しかった。父が亡くなってからは家も小さいものに移して、何度二人で囲ったか分からない食卓。
優しく厳しかった母。
その恩人を裏切ってまで、自分は今ここにいる。
もう二度と母の粥は口に出来ないし、それを願う資格すら自分には無いのだ。
一日の終わり頃にはこういった気持ちが未だにかすめる時がある。
鍛練が終わり、上官への報告も果たし、沐浴を済ましてから右将軍府の部屋に行った。それまで机に様々な書簡や地形図を広げながら何やら考え事をしていたらしかったその人は顔を上げてから「早かったですね」と言葉を向けてきた。
「終るまで待たせて頂きます」と言ったのだが、今夜はとことん兵法の話に付き合うと肚を決めているのか「いえ、始めましょうか」と言ってすぐに書簡を片付け出した。
書架からいくつか兵法書を持ってきたその人を見て、部屋の隅に置いてあった予備の胡床を机の側に持っていって、その人が席についてから自分も座った。
自分としても聞きたい事は山ほどあったので、これは本当に良い機会として多くの事を質問した。議論もした。特に一番話を聞きたかったのは実践の事で、机上の理論と本当の戦場での齟齬、実際にあった事故や過ち、そういったまさに今まで一国の丞相として戦ってきた活きた知恵だった。
そしてこの人は真剣にひとつひとつ教えてくれた。分からない所があれば何度質問しても嫌な顔ひとつ見せなかった。こちらが納得していないふうであると真摯に見つめてきて「どういった所が腑に落ちませんか」と丁寧に聞いてきてくれる。こちらがやっと得心いき、それを相手が感じ取ると「そのとおりです」と子供に向けて言う様に優しく笑ってくれるものだから、母の笑顔を思い出しそうになっては何度もそれを抑えた。
大体聞きたいと思っていた事は聞き尽くし、雑談のように様々な先人達の話をしていると、いつの間にかお互い欠伸が堪えられない時刻になってきた。
「そろそろ、寝ましょうか」
そういってこの人は寝支度を始めた。自分もそれに倣う。
寝台に横になってからふとある事を聞いてみた。
「・・・いつも思うのですが、先帝は・・・どういった方だったのでしょうか」
足下の裾を正していた彼はそれを聞いて、そうですね、と呟いた。自分とは頭を逆にして横になり上を向きながら静かに語りだした。
「激しい人でした。良くも悪くも」
「激しい」
「ええ。良く笑い、良く泣いて、怒って。時には周りも振り回された程です。ですが」
「・・・」
「初めて会った時から、この人を蜀漢の皇帝にする事しか頭にありませんでした」
そう言って、小さく溜息をついたのが聞こえた。
会った時から、何が何でも皇帝にしようと、この人に思わせた先帝。そして、筵織りから本当に皇帝にまでなったその人。冷静に考えればとんでもない人生だったし、それをやってのけたこの人もまたとんでもない人だった。
「この人が上に立つ国を見てみたいと。私の力が及ばず皇帝に即位されてから僅かしか御存命になりませんでしたが・・・」
「とてつもない、そんな人としか思えません。とても、想像もつかないような」
その言葉に、あははと笑ってみせた。この人が見せる、珍しく声を上げて笑うその朗らかな声音に胸が痛んだ。
「確かに言葉だけで聞くとそうかも知れませんね。ですが、実際に会えば多くの人がすぐに好きになってしまうような、そんな不思議な魅力があったものです。いくつになっても子供のような、そんな魅力が」
この人が声を躍らせて特定の人を語る事があるのか。そして今も尚、その人の為に寝食を削って執務に没頭するこの人。
「・・・何だか話し過ぎてしまったようです。もう遅いですし、寝ましょうか」
そう言って半ば強引に話を切り上げた彼に、寝る間際の挨拶を投げてから傍にあった燭台の灯りを指でつまんで消した。
遠くで青葉木兎が朧げに一声鳴いた。今夜は灯りを全て消しても月の光で仄かに寝所が明るかった。
しばらく横になっていてから、そっと身体を起こした。
横に眠る人を静かに見つめる。
温度が低そうな、しかし軽いというよりはどこか重そうなその黒髪を寝台に散らばらせながら規則正しく息をしていた。
顔をよく見るために気付かれない様に身体を寄せた。冷たそうで、すべらかそうな肌。奇麗に切りそろえられた髭と長い睫毛がその白さを一層際立たせていた。
見ていると、今朝握った彼の右手の感触を思い出した。乾燥して少しささくれ立っていた大きな手。頬はどうなのだろう、と指を伸ばしてそっと撫でた。
すると、彼が僅かに眉を寄せた。
「・・・」
手とは違ってしっとりと柔らかい肌だった。そのまま指をゆっくりとずらし、唇に落とした。今度は僅かに、本当に僅かに彼が身体を強張らせたのが分かった。小さく肩に力が入ったのが見えた。
恐らく、この人は起きている。
起きているが、目が開けられずに戸惑っているのだろうか。
目を開けて一言「何ですか」と言い放てば済むのに、どうしてしないのか。
そこまでして、忠臣ひとり失うのが惜しいのか。そこまでして「何が何でも皇帝にしてやりたい」と思わせた先帝の志を達成したいのか。その為ならば、なにもかも、自分でさえ失ってもいいのか。
そう思うと、結局この人は自分を見ている事はない、全ては先帝の為であり、この人が普段見ているものの先には必ずその人がいるのだと痛感した。
こんなに、息を詰めて、小さく手を震わせる位なら、もうやめてしまえばいいのに。
そう思うと自棄になってしまってこのまま口を奪ってしまおうかとも思い、顔を近付けたけたけれど揺れる睫毛を目にして、どこか気分が削がれてしまった。
ひとつ息をついて元通りに横になって少ししてから、彼が小さく鼻をすするのが聞こえた。もしかして、泣いているのだろうか。
いや、まさか。
ただ、例えそうだとしても、自分に彼を諦めつもり気は全くもってなかった。

    

    

   

    
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