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鯉は嗤う

この人さえ手に入るのならば何でもやってやるとまで思った事は生まれてこのかた一度もない。
全ての優先順位の頂点に君臨する圧倒的で熾烈な征服欲。
  
  
  
漢中。
春の溜息にも飽き、夏が裾をちらつかせはじめたそんな季節である。
書簡を届ける為に朝の廊下を歩いていた。
生まれてから曹魏で過ごし、そこの将として生きてきた自分が蜀漢へとやってきてからまだ間もない。未だにこの漢中に自分が無傷で立っていられる事にも、こうして普通に出仕して日々の実務をこなしている生活にも、これから訪ねに行く人に普段から会ったりする事にも、その全てが不思議で実感がない。あれだけ母思いだった自分。母に何かあれば絶対に許すものかと何度も想像しては熱くなり、己の家族だけはこの身に代えても決して渡すものかと思っていたのは数月前。母からの帰参を願う文に心が痛みはすれど、当時描いていた激情も遠くなり、どうしたのだ自分はと問いかけながら、しかしその答えに気付いているのだった。
声を掛けてからいらえを貰い、扉を開ける。
その人がいる。
自分の価値観を狂わせ、母を捨てさせ、敗将という屈辱すら忘れさせる男がそこにいる。
机上から顔を上げたその人は自分を見て挨拶代わりに微笑んだ。天水でこの人を見てから、この人と言葉を交わしてから、ああ、これが、これが欲というものなのかと生まれて初めて分かった気がした。これが、何かが欲しいと心の底から、骨の芯から渇望する事かと。
本当に欲しいものを手にする為ならば、今まで大切にしてきたものが色褪せていくのだと痛感した。それも前触れもなく、あっさりと。
絶対に手に入れる。
その為であれば、なんでもするし、どうやってもどう思われてもいい。自分を偽っても、理解されてなくてもいい。
前漢の哀帝は溺愛した官人董賢を手元に置く為なのか、その抑えきれない愛故なのか、まだ齢二十だった彼に大司馬の位を与え、更に彼の妻ですら厚遇し、あまつさえ己が崩御する際には彼に皇帝の璽綬を授けようとした男色家である。ある日寝ていた董賢が哀帝の袖の上で安らかに眠っていたのを、起こすのに忍びないと哀帝がその袖を断って寝所から立ち去った事で有名な話である。
この話を初めて聞いた時は、馬鹿でも皇帝の冠を戴けるのだなという蔑みの感想しか持たなかった。男色家というだけでも理解が不能な上に、その相手の妻を殺しもせずに良い仕事を与え養い、最終的には禅譲までさせようとしていた完全なる狂人。そこまで人を、国を破綻させる程の願望はむしろ邪魔な障害でしかなく、そういったものが己に付きまとないでいてくれて至極感謝と思っていた所に、予期せぬ、全く予期せぬ出来事。
今までに器量のいい娘を遠目で追いながら溜息をつく事もなくはなかった。人は人のどういう所に惹かれるのであろうか。容姿か、気性か、優しさか、明るさか。
今までそう考えていたし、今でもそういった基準は間違ってはいないと思う。
ただ、それらを完全に超越するものが存在し、運が良いのか悪いのか、いや明らかに悪いとしか思えないのだが、そういったものに巡り会ってしまう事が生きているうちにあるのだと知った。
容姿でも、気性でも、教養でも、知性でも、地位でも、品格でも、ましてや、考えるのも恐ろしい事に、性別でさえ何も計る為の役には立たないのだ。その人が、その人であるという事だけが、そこにある事実であり真実である。
「費禕殿からの書簡がこちらになります」
「ご苦労様です」
書簡の封を切ってから机上に広げて、一歩下がる。
それに素早く目を通してからこの人は淡く息を吐いた。
「返信を今したためますので、少し待って貰えますか」
「承知致しました」
左手で右手の袖を軽くまくってから、硯に置いてあった筆をとる。墨の中で筆先を尖らせる様にして撫でている彼の様相を盗み見た。
彼の細君は成都に残っている筈である。この小奇麗にまとめられた冠は自分で整えているのか、養子の彼に誂えさせているのか。
常に執務の事しか、蜀漢の事しか見えていないだろう、澄み過ぎた双眸。
単に組み敷いて泣かせたいだけという訳ではない。更にその先にある、全ての征服。吐息やその肌だけでいい訳がない。その視線、指が何を撫でるのか、何を考え、その先どのようにして生きるのか。その、全てを征服したい。
それに既に自分が懸想しているという事も彼には暗に知らせてある。ただ、自分はまだそれに気付かれていないと信じている態で、だ。
蜀漢の事しか考えていないだろうこの人。
裏を返せば、蜀漢の事であれば深く食い付いてくる訳である。そして既に見せつけてある撒き餌。後は彼がそれにどう引っかかってくるのか、そして自分がどのように動くのか。
考えれば方法はいくらでもありそうだった。
筆を走らせながら、伏せがちのその睫毛に胡蝶の瞬きを見る。
 
 
 
私の思惑全てその一片残らず体現出来るのであれば使えるものは全て使いましょう。
全ての優先順位を決定する程に重要かつ必然的で徹底的な支配欲。
 
 
 
返信の書簡に筆を走らせながらなんとなしにその視線を感じていた。思わず指が小さく震える。
曹魏からの敗将姜維。
母を故郷に残してきた彼は彼で色々と思う所があるだろう。
この生真面目な青年は見ていると胸が痛む。馬謖を思い出すからだ。容姿や性格は全く似ていないのだが、これから後事を託したいと思ってしまうその才知がどことなく似ていたし、もしかすると馬謖よりもずっと勝っている面があるのではないかと近頃思え始めてきた。
私の話を一所懸命聞き、執務もそつなくこなし、槍も得手で乗馬も秀やか。まだ指揮を執らせた事はないが、統率力があれば申し分がない。
そう思いながら日々過ごしている中、ふとある事に気が付いた。
よく目が合うのである。
勿論私の直属配下はよく自分を見ている。いつ私が指示を出すか分からないからだ。しかし姜維の直属の上役は私ではない。確かに右将軍府付きである以上私の動向にも気を向けるべきではあるがしかし、その順序が間違っている。
もしや曹魏と蜀漢ではどこか組織の仕組みが違うのだろうかと考えた事もあるが、どうやらそうではないらしい。
持ち続けていた違和感を更に深めたのは、城の中庭を二人きりで歩いていた時の事。その日は風が強くお互いの袍がたなびいていた。兵法の話をしながら歩を進めていると一段と強い風がひとつ通った。その際に庭に咲いていた花が一斉に散ったのだった。慌てて袖で顔を覆った自分を見て姜維が柔らかく笑ったのが印象的だった。どうしたのだろうとそちらを見ていると、彼は無造作に手を伸ばしてきてこちらの顎をそっと掴んだ。それから親指で優しく唇を撫でてきたのだ。驚いて思わず身を引いた自分を見てまた彼は笑った。
「花びらが口元についていては、右将軍の名前が褪せますでしょうから」
ああ、そうか、彼は花びらを取ってくれただけだったのか。
そうだろうか。本当に?
それでも何か確証が持てない頃、日々の働きを労うという事でささやかな宴が右将軍府の中で催される事となった。
互いが互いに手酌をし、執務の事や家族の事をそれぞれ好きに談笑し合った。自分も日頃執務の話しかしていない文官達と他愛ない話に華を咲かせた。そうして過ごしていると、少し酔ったかなと思った。そろそろ自邸に戻ろうかと考え、その前に顔だけ洗ってこようと井戸へ向かった。
その夜は月が明るかった。虫の声ひとつしない庭を通り井戸に向かう。夜に見る井戸はいつも不気味で、よく巷では笑い半分本気半分で、井戸には捨てられてこの世を呪いながら死んでいった女の霊が住みついているのだとかなんとか語りぐさになる位であった。
廂のせいで月の光が届かず真っ暗の中手探りで桶を探していると、ふと誰かの声が聞こえた気がした。
酔いも冷めて思わず身構えながら周囲を見た。しかし、誰もいない。
庭に背を向けるのを躊躇しながらもう一度桶を探していると、また声が聞こえた気がした。
今度こそ、しばらく動かずにそのまま立って周囲を見渡した。すると、どうやら井戸の傍にある物置小屋からそれが聞こえているらしいという事が分かった。
それこそ、その女の霊ではなかろうなと思いながら近付いていくと中に人がいるらしかった。
こんな時間に。どうして。誰が。
扉の隙間から僅かに月明かりが差し込んでいて、それを辿っていくとそこにいたのは何と姜維だった。でも、どうして。確かに宴が始まった頃は目にしていたが、後半はどこに行ったのか分からず、自分もそこまで気にはしていなかったのだ。
もしかして体調でも崩しているのではと思い、声を掛けようかどうか迷っているとまた姜維が声をあげた。
「・・・っ」
これはいよいよ放っておく訳にはいきそうにないと思った時に、いやしかし何かがおかしいと違和感を持った。
「ふ・・・、は」
鼻にかかるような声を上げた彼の表情を見て、彼が人目につかない所で自分を慰めているのだと分かった。
あぶない所だった。しかし彼も年頃の青年。そういう事もあるだろうとその場を立ち去ろうとした時。
「・・・こ、孔明、様」
息が止まった。もしかして見ていた事に気付かれたのだろうか。もしそうであれば違うのだとここでちゃんと弁解しておきたい。そう思って振り返ると、姜維は目を瞑ったまま再度「孔明様」と私の字を吐息と共に呼んだ。
その瞬間、そうではない、とやっと悟った。思わず後ずさった。それから自分がどうやって自邸まで戻ったのか正直よく覚えていない。恐らく挨拶を手早く済ませ、そのまま帰ろうとした自分を案じて誰か自邸まで送ってくれたのだとは思うが、やはり詳細は思い出せなかった。
帰ってきた自分を喬が迎えてくれた。
「お帰りなさいませ。・・・父上?」
どうやら顔色が悪かったらしい自分を心配してくれたのか、喬が傍に寄ってきて顔を覗き込んできた。
「顔色があまり優れませんね・・・。寝所の用意は済んでおりますから、早くくつろがれてはいかがですか」
そう言って私の冠を外そうと伸ばしてきた手を咄嗟に払ってしまった。
驚いて私を見た喬だったが、気を取り直す様にして笑った。
「珍しいですね。父上が酔いどれるなんて」
「いや、済まない・・・。少し気分が良くないようだ」
「濡れた布をお持ちしますので、先に寝所へ」
そう促されて寝所で冠や袍を落としていると喬がやってきた。
「ありがとう。今日はお前も早く休みなさい」
「そうしたい所ですが、このような酔っ払いをひとりにしておけませぬ」
そう言って寝台に座らされ、濡れた布で優しく拭いてくれた。それは火照った顔に気持ち良く、思わず目を閉じて息を吐いた。
「お疲れでございますね」
「・・・そうかも知れないね」
いつもは否定するのに、そう素直に肯定した自分を喬は不審がって見つめてきた。
喬と彼はそう言えば歳が近かったか・・・。
この子も陰ではひとりで自分を慰めたりしているのだろうか、等と滑稽な事を思いながら気を反らそうとしたが、やはりどうしても出来ない。姜維が漏らした、自分の名前が耳に張り付いて取れなかった。ひとりになればあれが頭の中で反芻されそうだった。今日はもう何も考えたくなかった。本当に酔っていたのもあったのだとは思うが、それを利用して顔を拭いてくれている喬に思い切り抱き付いた。
「父上」
「一緒に寝てくれないか」
「・・・本当に、どうされたのですか。そんなこと、今まで一度も」
「小さい頃、一緒に寝てやれなかったから」
「もう一緒に寝てもらって嬉しい歳ではありませんよ」
「いいではないか。父のわがままだと思って」
そう言って酔って重くなった身体ごと喬を寝台に横にさせた。もうこんなに大きく、逞しくなっていたのかと妙な感慨もあった。
「・・・本当に信じられませんね。一体、何があったのでしょう」
「なにも、ないよ」
「李厳殿に何か嫌味でも言われましたか」
その言葉に思わず笑ってしまった。
「嫌味を言われた位で落ち込む筈がないでしょう。それにお前、そういう事は外で言わないように」
腕を離す様子が無いので、喬が諦めた様に寝台の上で寝住まいが良さそうな場所を探し始めた。溜息をつきながらこちらの頭を撫でてきた。まるで親子が逆転したようだった。
「おやすみなさい、父上」
「うん、おやすみ。今日は色々とありがとう」
喬の胸に顔を当てていると鼓動が聞こえてきて、無駄な事を考えずに済みそうだった。
全ての事はまた明日から考えればいいし、逆を言えば明日から徹底的に考えるつもりでもあった。
 
 
 

  
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