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桔梗の涙

丞相が戻ってきたと聞いた時は耳を疑った。あまりにも喜びが溢れてきて手が震えたのを思い出す。
そして帰ってきた丞相を見た時は目を疑った。あまりにも怒りが溢れてきて全身が震えたのを、今でもはっきり覚えている。
  
あれから典医が付きっきりで丞相の様子を見ていた。その為に一度も自邸へ戻ることなく丞相府の部屋で養生することとなった。自分が行っても何も役には立たないと思いつつも、どうしても足を運んでしまっていた。そして、それがいつしか日課になっていった。典医とも顔なじみになった。
その日も典医と出会して診察をしてる様子を隣で見ていた。元々痩せていた身体が、更に痩せてしまって痛々しかった。細くなったというより、むしろ小さく縮んでしまったような手首を取って脈を計っている典医がふと呟いた。
「・・・相当、飲まされていたようです」
「え、その。・・・何を、でしょう」
典医は、周囲に誰もいない事を確認してから言った。
「薬です」
「・・・どんな」
「言葉にすることも憚れますが・・・」
ひとつ息ついてから小さく呟いた。
「媚薬、の一種と申しましょうか」
典医が言っている意味が掴みきれなかった。混乱している自分に気付いているのかいないのか、典医は更に続けた。
「丞相が帰参されてからすぐに御身体を診察させて頂きましたが、その、ひどく、・・・痕も残っておりましたので・・・。本当に、おいたわしい事です」
自分の中で周囲の動きが止まった様に思えた。無音。勿論、言葉としては理解出来るのだが、頭が理解する事を拒んでいる。惚けた子供のように突っ立っていると、いつの間にか診察が終って典医が帰り支度を済ませていた。
「まだ、ほとんど膳もお召し上がりになりません・・・。恐らく、先程お話した件で相当の心労が溜まっていらっしゃるご様子です」
「・・・」
「もし丞相が目を覚まされましたら、少しだけでも宜しいので声を掛けて下さいませんか。親しい人と言葉を交わすだけでも、心は癒される筈ですから」
「・・・分かりました」
拱手をしてから典医は退出していった。
昏々と眠り続ける丞相の顔を見つめた。薄く唇を開いて息をするその人は、もしかして二度と目を覚まさないのではないかと思う程に、どこか生きていることを放棄しているように見えた。骨をなぞるような痩せた頬にそっと手を伸ばす。そのまま口元へ指を滑らせると息で指先が微かに湿った。ああ、そうだとしても、この人はまだ生きている。生きて、ここに、いてくれているのだ。そう実感するとどうしようもなく感情が昂って涙が溢れてきた。そこにいてくれるだけで、これ程にも嬉しいものなのか。涙を拭いもせずに、ただひたすらに眠るその人の髪を撫でた。どうか、どうか、眠りの中で少しでも癒されれば。
その日は最後まで目を覚まさなかった。ずっと傍に居たかったが、もう行かなくてはならない時が来て、自分はそっと丞相の髪に口づけを落とした。
  
その日は、ほんの一時丞相が目を覚ました。
ゆっくりとこっちを向いたその人は少ししてから自分を認識したらしく、柔らかく微笑んだ。
その笑顔に、自分の心が狂いそうになるのを感じた。許されるのであれば、この人の全てを包んで癒したい。この腕にかき抱いて不安も恐れもいつか受けた傷も、すべて忘れさせたい。しかし。
手を、優しく取った。
「丞相、おはようございます」
  
その日は、内庭で見つけた桔梗を持って行った。ああ、もう夏が来ているのだと感じて息をついた。丞相が戻ってきた時は桃の季節だったか。時が流れるのは本当に速かった。
白い花器に水を注ぎ、一輪挿して寝台の傍の櫃に置いた。目を覚ました時に、この桔梗が目に入って少しでも心安らかになればと思ってのことである。丞相から桔梗の花が良く見える様に茎の位置を整えていると、微かにその人が呻いたのが聞こえた。思わずそちらを向いた。
眉根を寄せて何やら苦しそうだった。もしかしたらよくない夢を見ているのだろうか。喉を仰け反らせて短く息を吐いてから、消え入りそうな声で呼んだ。名前を。
ああ。
ああ、そいつか、と思った。
そいつが、丞相を、このように。
身体を揺さぶった。早くその悪夢から目を覚まさせる為に。しばらくしてその人は気付いて、静かに目を開けた。
「・・・姜維」
「丞相・・・。うなされておいででしたので、僭越ながら」
「・・・そう、でしたか」
掠れた声で呟きながら目元を綻ばせると、溜まっていた涙が一筋こめかみを伝って落ちた。
「ありがとう」
それにはただただ微笑みで返した。
いつか、そいつの首を引きちぎるまで自分は死なないと決めた。槍や剣で首を落とすなんて生温い。必ずこの手で引きちぎる。必ず。
  
その日は、霧雨が降り続いていた。濡れた桔梗の雫を払って今日も花器に一輪挿した。
どうやら悪い夢は見ていないらしく、穏やかに息を繰り返していた。
しばらく見つめてから、額に口づけを落とした。
  
その日は、行った時には目を覚ましていた。少しずつ快方に向かっているのだろうか。それであれば、本当に、本当にありがたい。
日課のように、古い桔梗を取り除いてから持ってきた新しいものを花器に挿した。
その様子を見ていた丞相が「・・・いつも、貴方が持ってきて下さっていたのですね」と呟いた。
「少しでも、慰めになればと」
「それは、捨ててしまうのですか」
こちらの手にある桔梗を見ながら聞いてきた。
「あ、はい」
「・・・それでしたら、私に下さいませんか」
「も、勿論です」
予想していなかった言葉に驚きながら、手にあった桔梗を渡した。
丞相はその花に顔を近付けた。
「少しだけ、香りが残っていますね」
優しく花弁を撫でる。
「いつも、目が覚めた時にこれが傍にあって・・・。ああ、今日も誰かが来てくれたのだ、と心が温かくなりました」
少し痛んだ桔梗を愛でる貴方が、美し過ぎて。
思わずその手を攫うように取ってしまった。
「え」
こちらを見るその人を見ながら、指の匂いを吸い込むように爪に口づけた。
「丞相の気持ちを、少しでも和らげることが出来て、幸せです」
自分の言葉に息を飲んでから、戸惑う様にして笑ったその眼差しは、どうしようもなく。
どうしようも、なく。
  
その日も、桔梗を新しいものに変えてからその人の様子を見ていた。
しばらくすると身体を丸める様にして苦しそうな息を吐いた。もしかして、またよくない夢を見ているのだろうか。起こそうかどうか迷っていると、丞相の手が何かを掴みたがって寝台の上を彷徨った。その指がとてもつらそうで、思わず握って揺さぶった。
「丞相」
何度かそうしていると、吐息を漏らしながら目を覚ました。
「・・・姜維」
汗で濡れている額を拭って、貼り付いている前髪をそっとかき分けた。
「申し訳ございません。・・・辛そうでしたので」
答えた自分の手を、その人は握り返してきた。
「丞相」
痛い程に。
「どうされましたか」
「・・・」
「どこか、お加減でも・・・。すぐに、典医を」
「いえ」
「でも」
首を横に振った。
「いえ」
「・・・」
そうは言っても、どこかが痛むのか浅い息を繰り返していた。
「丞相」
どうすればいいのか分からずに顔を覗き込むと、首に腕を回された。
気が付くと、そのまま身体を抱き寄せられて口づけされていた。
意味が分からずにされるがままになっているとますます唇が深く絡まってきて、身体がざわついた。
一体。どうして。
更に強く抱き寄せられて、寝ている丞相の上に覆い被さるように倒れ込んでしまった。
「ん」
舌が絡まってきて、思わずその人の唾を飲み込んだ。自分が来る前に典医が来ていたのか、どこか薬っぽい茶の香りがした。
「じょ、丞相」
いつの間にか自分の袍がはだけていて、痩せた手が肩や背中をなぞってきた。くすぐったさに丞相の横に身体をずらした。追うようにして身体を被せてきた。唇が首筋へ、胸元へと落ちてきて、ただただ戸惑う。どうしてこうなっているのか分からない。どうすればいいのかも、分からない。
気が付くと太腿を舐められていた。その人の顔がそんな場所にあるということに、どうしようもない恥ずかしさと、どうしようもない艶かしさを感じてしまう。そのまま丞相が自分のものを手に取って咥えようとした時に、さすがに慌てて自分から引き剥がした。
「丞相」
「・・・」
「一体、・・・どうして」
戸惑いながら聞いた自分の手を強く握って、その人は消え入りそうな声で吐き捨てた。
「・・・苦しいのです」
「丞相」
「もう、自分でも、どうすればいいのか、分からなくて・・・」
「丞相」
どうしようもない、という風に、見つめてきて。
「・・・助けて」
震えながら、そう囁いて。
縋り付いてきたこの人を、どうして離すことができるだろう。
強く抱きしめると、かすかに安らかな息を吐いてみせた。首筋に深く口づけを落とすと、小さく「ありがとう」と囁いたように、聞こえた。
  
唇を身体に這わすと吐息を漏らした。首を仰け反らす様がどうしようもなく扇情的で、それだけで気が遠くなりそうだった。身体を下へとずらしていって、その人の足の付け根に口づけてから、優しく咥えた。痩せて筋張った太腿の裏を柔らかく撫でると身体を震わせた。
「・・・っ」
何度も舐めたり、口に含んだりしていると相手の息が浅くなってきた。こちらの頭を撫でていた指が、耳の裏や首筋をくすぐっていく。強く吸うと、身体をわななかせた。零さないように咥えたまま全て飲み込んだ。ひとつ息をしてから、清めるようにまた隅々まで舐め回した。
「姜維」
肩で息をしながら濡れた目でこちらを見つめてきた。吸い込まれるようにその人の唇を吸ってから、指を後ろへと忍ばせる。促す様にこちらの耳を音を立てながら舐めてきた。
指を入れると身体を上ずらせた。それを抱きしめて押さえながら少しずつ指を進めると、切なく啼いた。
「丞相」
中は狭くてきつかったが、根気づよく慣らしていくとあるひっかかりに指が触れた。
「あ」
思わずといったふうに声を漏らした。開いた口元から赤い舌が覗いてその動く様に、心が騒ぐ。
優しくいじると「・・・は、・・・やっ」と首を横に振った。
「苦しいですか」
尋ねると、また首を振った。いじると、声が漏れる。
「その、・・・どうか」
もっと。
という様に強く抱き付かれると、自分の中で今まで抑えていたものが壊れた。
指を抜いてから、身体を寝台に押し倒した。細い足を肩に抱えてから自身を一気に捩じ込んだ。苦しいのだろう。汗が浮かんだ喉を震わせながら腰を掴むこちらの腕を痛い程に掴んできた。
しかし、もう自分に相手を思いやる余裕もなく、ただただ、自分の快楽を追う様に身体を動かした。目元を赤く染まらせながら喘ぐその人は恐ろしい程に、美しかった。
何度抱いたか分からない位、その人の身体を求めた。苦しそうに善がっていても、喘ぎ声が掠れ出しても、首を横に振っても、抑え付けて何度も何度も身体を貪った。お互いの意識が混濁し始めた時に、一瞬その人がひどく安らかな表情を見せた。全てを忘れて、何かから解放されたような、不思議な安らかさだった。それから自分の腕の中で事切れるように、気を失った。その身体を抱きしめながら自分は大声で泣いていて、それを知ったのは涙が涸れて声が出なくなってからだった。
  
「姜維。こちらへいらっしゃい」
遠くで、母が手招きをしていた。なんだろうと思って近くにいくと、優しく頭を撫でられた。
柔らかく笑う母の顔に、ただただ心が温かくなり、理由のない喜びが湧き上がる。
ああ、自分の愛する人が笑顔だと、こうも嬉しいものなのか。
どうか、どうか。
あの人も。
  
ふと目を覚ますと、言いようのない懐かしさと切なさとで胸が占められていた。どこか苦しくて、ひとつ息をつくと自分の頭が優しく撫でられていることに気が付いた。
「・・・丞相」
その顔を見た瞬間に、反射的に声を出そうとしたらそっと口を手で塞がれた。
「どうか、・・・謝らないで下さい」
「・・・」
「私が、無理矢理にしたこと、ですから」
「そんな」
「謝るべきは、こちらです」
そう言ってきた相手の手首を唐突に掴んで引き寄せた。驚いてかすかに開かれた唇を吸った。息をさせない位、強く、何度も味わった。しばらくして苦しくなってきたのか、こちらの肩を叩いてきた。離すと息を整えながら「姜維」と顔を覗き込んできた。
「丞相」
「・・・」
「もう一度謝ったら、怒っていいですか」
「姜維」
「愛しています」
「・・・」
「私は、貴方を、愛しているんです。どうしようもなく、愛しているんです」
「・・・姜維」
「ああ、気が、狂いそうだ・・・」
歯を噛み締めても、どこから上がってくるのか分からない呻き声が漏れてきた。
そんな自分の頭を、やはり丞相は優しく撫でてくれた。
「どこか、遠くで、誰かの泣き叫ぶ声を聞いた気がするのです。どうしようもなく、切なくて、悲しい声・・・」
そう言ってから、あ、と声を上げた。何だろうと思ったら、その人は桔梗に目をやっていた。
「桔梗が、泣いて・・・」
自分も身体を起こしてそちらを見ると、桔梗の花びらに露が浮かんでいた。それは朝陽を浴びて光る一粒の涙に、見えた。
「貴方に、似ていますね」
そう言って全ての悲しみを内包しながら微笑んでくる丞相の身体をかき抱いた。
「・・・丞相。涙は、誰かが流さないと、なくならないんですよ」
「かわりに、泣いて下さって、いるのですか」
「丞相がご自分で泣けるまで、私がかわりに泣きます」
真面目に答えたこちらの顔を見ながら、丞相は小さく声を出して笑った。
「貴方らしい、ですね」
「丞相。笑わなくていいんですよ。本当に嬉しい時だけでいいんですよ、笑うのは」
「・・・」
ふと黙ってこちらの肩に顔を埋めてきた。かと思うと身体を小さく震わせて、また笑った。
「どうしてでしょうね。笑いが、止まらないんです」
言いながら、その目からはひとすじ、ふたすじ涙が零れ出してきた。
「・・・姜維」
「・・・」
「泣くのって、どうやるんでしたっけ」
苦しそうに呟いたその人の顔を自分の胸に押し付けるようにしてから「泣き方に、方法なんてありませんよ」と囁くと、背中に回された手に力が入ったのが分かった。それに応える様に自分もまたその人を抱きしめて、ひとつ息を吐いた。
  


  
おわり

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