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一陣の卯花

費禕がそっと聞いてきた。
「処断の日取りは、お決めになりましたか」
馬謖の極刑を決めた時、費禕は何も言わなかった。
元々馬謖を斬る事に反対であった彼だが、一言も「考え直してはいかがですか」とは言わなかった。
何回も何十回も考え直した末の結論だという事くらい、分かっているのだろう。もしそのように言われても当然結論を覆すつもりはなかった。それほど考え抜いて出した結論だった。
「二日後の鐘九つに。準備は整いそうですか」
「はい」
「では、お願い致します」

 

  

その日は風が強かった。
調練場の一角に刑場が設けられており、今回もそこで執り行われる事となった。
昼という時間帯のせいでもあるのか沢山の人が既に集まっていた。
ここまで立会人が多いのは珍しいのだが、事情が事情であるだけにそれも致し方なかった。
馬謖と関わりがあった者。馬謖がちゃんと処断されるのか確認しにきた者。単に話題になっているので見にきた者。様々な人が様々な思惑と一緒にこの場へ集まっていた。
その中でとりわけ人の目を引いていたのが陛下であった。
通常であれば下官の処断になど足を運ばれる事のない陛下が、今回は立ち会いを希望したのだった。
刑場に集まった人達のざわめき。
係の者達の準備のさざめき。
そんななか遠目に陛下がこちらを見ているのに気がついた。手招きをしていたので、すみやかに傍へ寄っていった。
「もう、こんな季節なのだな。卯の花がこんなに咲き乱れて」
陛下は唐突にそう言って、周囲を見渡した。
刑場は真っ白な卯の花で満たされていた。いつの間にか、耳を澄ませば夏の足音が聞こえてきそうな、そんな時期になっていたのだった。
「・・・早いものです」
そう頷いたこちらを陛下がそっと見つめてきた。
「博識なそなたに私から言う事でもないと思うのだが、顔回の逸話は知っておるな」
顔回は孔子の一番弟子であった。孔子は人の葬儀の場で取り乱す事ははしたないとしながらも、己の一番弟子である顔回の葬儀では泣いて天を恨んだと聞く。
「あの孔子でさえ、そうだったのだ。・・・誰もそなたを咎めぬであろう」
「・・・はい」
「誰かが嘲笑したら、その人に私がこの顔回の話をしてきてあげよう。私の口から儒学の話が出るとは驚きであろうからその事にびっくりして、きっとそなたの泣き顔は忘れてしまうだろう。・・・よいな、孔明」
人前で泣いても何もおかしくないのだ、という陛下の優しい言葉だった。
その深い心にただただ感謝の念しかなく、しばらく無言のまま頭を下げ続けた。

  

   

準備が整ったようだった。
後ろ手に縄を回された馬謖が刑場に入ってきた。
万が一抵抗する事も考えられるとして、馬謖の傍に近付く事は止められた。抵抗する筈がないと確信していたが、周りの者達がそれを許さなかった。
縄が外されて末期の盃を手渡されている馬謖が遠目に見えた。
もし、ここで「やっぱりやめよう」と自分が言えば馬謖は死なずに済む。
「やっぱり流刑にしよう」と自分が決めれば馬謖の首は飛ばずに済む。
それでも。
もう、決めてしまった事だった。
どんなに失いたくなくても、やはり軍法を曲げる事だけは出来ない。その相手が己の寵臣であれば尚更だった。それをしてしまえば、この国全体が統率を失い瓦解する。それは、それだけは、国の責任者として踏み越せない境界線であった。
もしかしたら、劉備殿であれば、みんなに泣いて詫びてその罪を許してもらっていたかも知れない。しかし、それは劉備殿の人徳があって許されるものである。私に、それは出来ない。
ここまできて、どうやら涙は出そうになかった。少しでも泣いておいた方がむしろ後々政敵達に陰口を言われないだろうかという冷めた考えが一瞬頭をよぎり、為政者としての卑しさが染み付いた己を知った。こんな自分は、人の死を悲しむ資格さえ無い。
馬謖が末期の酒を飲み干した。
係の者がこちらを見てきた。
風が強い。
砂埃で視界が悪かった。
一度空を仰いでから、視線を戻し、係の者に頷いた。
馬謖が僅かに微笑んだように見えたのは、何の悪戯だろうか。
ああ。
風がうるさい。
剣が振り下ろされて少ししてから濃い血の匂いが辺りに漂った。
突風が吹いた。
刑場に咲いていた白い花弁達が散っていく。
全てを吹き攫っていくかのように通った、一陣の卯花。
ふと馬岱が目に入った。なぜ、貴方が今にも泣きそうな顔をしているのだろう。
それを見て、何故だか、少し笑ってしまった。
もう、正直、何も考えたくは無かった。

 

  

  

その日の夕暮れ時に、馬岱が執務室に顔を出してきた。
特に何を言うでもなく胡床に腰掛けたままこちらを見ていた。自分も特にそれに対して何を言うでもなく、ただただ執務をこなしていた。
しばらくして、扉を叩くものがあった。
いらえを返すと費禕が入ってきた。
大した用も無さそうなのに執務室に居座っている馬岱に一瞥をくれてから、こちらへと寄ってきた。
「お渡ししたいものがございます」
そう言って懐から出したのは紙であった。
「・・・馬謖殿より、預かっておりました」
「・・・」
費禕はそれをこちらに手渡してから一礼をし、静かに退室していった。
「・・・」
紙なんて、わざわざ取り寄せたのだろうか。そんな他愛もない事をぼんやりと考えながら封を切った。
すると、中にはもう一通の古びた紙が入っていた。
これはなんだろうと思いつつ、まずは紙面にある馬謖の字を追っていった。

そこには自分に対する感謝の念と過ちに対する謝罪が書かれており、一緒に入っていた古びた紙の説明もしたためられていた。

   

 

「これは、兄の馬良から預かっていたものになります。夷陵へ行く前にしたためたもので、何年か経ってから孔明様に渡すよう言われておりました。恐らく、兄自身、夷陵で果てるつもりだったのだと思います。そして、その死の痛みが消えた頃に渡すようにとの配慮だったのでしょう。牢にいる際、費禕殿に無理を言って私の荷の中からこれを探してもらいました。お渡しする機会を計っておりましたが、この度それを得る事が叶い安堵しております」

 

 

そして最後はやはり感謝の念で締められていた。
古い方の紙を見るとこちらも糊で封がしてあった。爪でひっかくとそれは脆く剥がれた。
目に入った字を見て、僅かに気持ちが動揺した。久々に見る馬良の字であった。
恐らく夷陵では敗戦する事を予見していたのだろう。その後の政権の問題点や改善点など詳細な意見が書き連ねてあった。]

 

 

「夷陵の敗戦は傷が深くなるだろうから、うまくいかない事も増えると思う。例え大きな敗戦や失敗がその後あったとしても、己の采配が故と自分を責めないように。戦も政も、そんな単純なものではない事くらい、尊兄になら分かるだろう」

 

 

実に彼らしい言いようだった。
その後も様々な諭しが書かれており、最後はこちらの体調を心配する言葉で締めくくられていた。一体、どちらが兄なのか分からなくなるような手紙であった。
読み終わりそれを閉じようとして、ふと手紙が二重になっている事に気付いた。随分と贅沢な使い方をしているなと思って何気なくめくってみると、重なっていた紙の下の方に、静かに文字が隠れていた。

 

 

「愛してる。いつまでも」 

 

 

今までそういった事は一切言わなかった彼であったので、その言葉に驚いた。

もはやこの言葉の真意は探る術すら無いが、彼と一緒に過ごした時間が思い返されて胸が苦しくなった。よく向けてくれた優しい眼差しを思い出した。
ひとつ息をついてから、馬良からの手紙を閉じた。馬謖からの手紙も閉じようとして、手を止めた。息を飲む。
こちらも紙が二重になっていた。まさかと思い、それをめくってみた。
同じような場所に、同じような形で、ひっそりと文字は隠れていた。

 

 

「愛しています。誰よりも」

 

 

示し合わせたかのように、同じ事をして、同じ事を書いた兄弟。
なんていうことだろうか。
息が、苦しくなった。
気が付くと、自分は嗚咽を漏らしていた。
それを認識してしまうと、涙が止まらなくなってきた。
もはや何故自分が泣いているのかすら、よく分からなかった。
馬岱が黙って傍に寄ってきた。涙で濡れてしまわないように手紙をそっと掴んで机に置いた。中が見えないように裏にして。
そして優しく抱きしめられた。
「・・・こうしてれば、声、外に漏れないから」
己を責めるなと言われても責めずにはいられないし、感謝していますと言われてもただただ罪悪感しか湧かなかった。
自分は一体何なのだろう。
大切な人達を守る事すら出来ない、むしろ己の采配でその人達を失っていくこの自分は一体何なのだろう。
ひたすら泣き続ける自分を、馬岱がいつまでも抱きしめてくれていた。

  

 

  

  

 

 

時は経ち。

  

    

  

 

  

諸葛亮は執務室の窓辺にいた。
そこに置いてあるのは、酒が入った二つの白い盃。
雲雀が遠くで鳴いていた。
しばらく外を見つめた後、片方の盃を手に取り一気に酒を飲み干した。盃を裏返してまた窓に置いた。もう片方の盃も同じようにする。
目を閉じて、静かに呟いた。
「・・・行ってきますね」
何かを確認するかのように二つの盃に触れて、それから執務室を出ていった。

建興六年の冬。
これから二度目の北伐が、始まるのであった。

 

 

 

    
おわり

 

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