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一陣の卯花

残された場所に突っ立ったまま、馬謖は顔を伏せていた。
しばらく黙ってその様子を見つめていた。
戦に出る前と比べて大分痩せたようだった。
自分から声を掛けるか、相手が何か言い出すまでひたすら黙っているか迷ったが、やはり気持ちが落ち着かなくなってしまった。それを紛らわす様に馬謖の傍へ寄った。
俯いたままの馬謖を覗き込んだその時、急に襟を掴まれて引き寄せられた。
状況が飲み込めず、気がついた時には腰を深く抱き寄せられ、髪に差し込んだ大きな手で頭を抑えられていた。
「・・・幼常っ」
名前を呼んだ次の瞬間にその口は既に塞がれていて、激しく唇と舌を求められた。息継ぎの隙さえ与えられず思う様に吸われ舐められた。そして、頭にあった手はこちらの襟に滑り落ちてきて、乱暴に着衣を剥ぎとられた。露になった肩に空気が当たり、反射的に感じた恐ろしさで小さく身体が震える。
舌をなぞらせて唇から顎へ、首へと落ちてきた。首筋を強く吸われた時に、ふと何故馬謖がこのような行動に出たのか直感的に分かった気がした。
その事に気付くと、あまりの切なさに胸が痛んだ。
自分の首元で泣いているかのような馬謖の顔を両手で包んだ。驚いて顔を上げた馬謖を少しの間見つめて、自分からその唇へ口づけを落とした。予想外の状況に馬謖が狼狽したのが見てとれた。
更にこちらから相手の口を開けさせて舌をなぞってみせれば、ますます馬謖は戸惑い、あげくの果てにはこちらの身体を突き放した。
「・・・な、なぜ・・・」
泣きそうな顔で聞いてきた。
「・・・馬鹿ですね」
「・・・」
「・・・今更、無理に、急いで私に嫌われようとしても・・・、それが一体何になるのです・・・。この程度の事で、自分が嫌われるとでも思ったのですか」
乱れた袍の襟をかき寄せながら、そう呟いた。
馬謖はこちらの迷いを見透かしていたのだ。
その迷いを少しでも減らそうとして、あえて狼藉を働こうとしたのだった。
「・・・どうか、処断にお迷い無きよう」
その言葉を聞いた瞬間、思わず手が出てしまっていた。
頬を張った音が執務室に虚しく響いた。
「一体、どの口がそれを言いますか」
「・・・」
「どれだけの時間を貴方と過ごしてきたと思っているのですか。どれ位、食事を共にしましたか。どれ程の数、貴方が持って来た書簡に署名をしましたか。何度、轡を並べましたか。同衾した数も、貴方に髪を結ってもらった数もどれ程になるでしょうか。貴方に教えていない兵法はありましたか。貴方に話していない賢人はいましたか。どれだけ」
「もう、終わってしまったのです。それも」
「貴方は、本当に・・・、どうしようもありませんね。どうしようもない・・・」
「・・・私は、貴方が好きで好きで堪りませんでした」
「・・・」
「荊州で兄上と殿に仕官した時から、貴方の事をずっと目で追ってしまいました」
馬謖はこちらをまっすぐに見つめてきた。
私に嫌われる事がもはや己の最後の仕事と決めたのか、死ぬ前に全ての思いを吐ききってしまいたいと考えたのか、自暴自棄になっているのか、それともその全てだろうか。
「ああ、この世にこんなに美しい人がいるのかと思いました。女のような美しさなどでは無く、知性を形にしたらこういう姿になるのだろうかと、いつも思っていました」
ひとつ、溜息をつく。
「どうして、出会ってしまったのでしょう・・・。出会ってさえいなければ、私も貴方もこの様に苦しむ事はなかったのに・・・」
「・・・私は、貴方と過ごしてきた日々自体を否定する気はありません。どれだけ、・・・愚かであったとしても、貴方は私の大切な弟のような存在でした。それは、やはり、私にとっては幸せな事でした」
でした、とわざと過去形で話をした。そうでもしなければ、気持ちが揺れてしまう。もう、諦めなくてはならないのだ。この者との、これからの全てを。
頭では分かっているのだが、心はどうしようもなく乱れた。それを押さえつけるように静かに言を続けた。
「貴方は私の事を、よく見ていましたね。・・・それが、先程言っていたような理由からであったとしても、そこから多くの事を学んでいたのだと思います。やはり、出来た弟子でした」
「・・・お願いですから、そういう事を仰らないで下さい・・・」
「貴方は私の為に沢山の執務をこなしてくれました。気遣いも沢山してくれました。私には、過ぎた後継者でした」
「もう・・・、どうか、止めて下さい・・・」
「気付いていましたか。貴方は私をよく観察していた為か、いつからか食べ方の癖まで似てきて・・・。はじめに汁物から手を付けて、それから塩漬けの蕪、それから魚。食べ終わった後の箸の置き方まで一緒。私が肉をあまり食べないのに影響されたのか、貴方まで肉を食べなくなりましたよね。そうなったのは、ああ、いつの頃からだったでしょう・・・。貴方は武官でもあるのですから、食べればよいものを・・・。本当に、可愛い弟子だった・・・」
「お願いですから!もう、勘弁して下さいよ!」
「勘弁して時が戻るなら、私だってそうします!・・・これ位、これ位の恨み言、言わせて下さい・・・」
「・・・」
「ああ・・・」
馬謖はこちらを見つめながら、ひとすじふたすじ涙を流した。
「・・・どうして・・・、どうして、そんなに美しいのですか・・・」
そっと、手を伸ばして涙を拭ってやった。
「・・・本当に、馬鹿ですね・・・」
溜息が漏れる。
「ずっと、好きだった・・・」
そう言う馬謖に「知っていました」と言って抱きしめるべきか、何も言わないべきか迷った。抱きしめて何かが救われるのであればそうしてやりたい。しかし、それによって万が一もっと生きたいと思ってしまったら、とてつもなく残酷なことになる。どうすれば、どうすれば馬謖にとって良いのか、本当に分からなかった。
「丞相・・・」
「・・・」
「・・・私を大事にしてくれたのは・・・、兄上がいたから、ですか・・・」
「・・・」
「時々、丞相は私を見てとても懐かしそうな目をされる時がありました。・・・恐らく、兄上の事を思い出されていたのだと思います・・・」
少し前に馬岱にも同じような事を言われた気がした。
「丞相、私は、兄上の替わり、でしたか」
酷な質問だった。勿論、そのつもりは無かったが、果たして突き詰めて考えると、本当にその気持ちは皆無だったか、自分でも正直分からなくなってしまう気がするのだ。
「・・・そうですよね。私なんて、兄上に遠く及びませんでした。丞相を護るよう強く言われていたのに、こんなことになってしまって。・・・悲しませて。兄上の替わりだったとしても、目をかけて下さっただけで良しとすればよかったのに、なにを欲張って・・・」
そう呟いて馬謖は床に崩れた。
違う、と否定しようとして思わず自分も床に膝をついた。
力なくこちらを向いた馬謖は、無意識のように顎に手をのばしてきた。口づけをしようとして身体を寄せてきたが重心を崩してこちらに倒れ込んでしまった。支えきれずに床に押し倒された形になった自分を少し見つめてから、再度口を寄せてくる。
先刻のような荒々しいものではなく、恐ろしいほどに優しい口づけ。柔らかく包み込んできてから僅かに離れると、唇ごしに馬謖が震えているのが分かった。
「・・・意地悪な質問をしてしまい、申し訳ございません。・・・そういうつもりで私を育ててくれたのではないと、・・・本当は分かっております・・・」
その言葉に、もう、涙が抑えられなかった。
とにかく、己の采配ひとつひとつで関わった全ての人達が不幸になっていくような、そんな罪深さを感じた。
馬謖の手が慈しむようにこちらの顎を撫でて、首をなぞり、胸元を探ってきた。そっと肩も包むように撫でられた。袍が肩から滑り落ちる。露になった腕をそろりと指がたどっていき、また戻り、そのまま脇腹に触れてから足元まで降りてきた。
耳の近くで馬謖の嗚咽のような息遣いが聞こえる。
もう、どうすれば良いのか分からず、あまりにも胸が苦しくて眉を寄せると目元に溜まっていた涙がひとすじふたすじとこめかみを濡らしていった。
本当に、彼を処断するのが適切なのか。一体、何が正しいのか。
急に馬謖が身体を起こし、はだけた襟元を強く掴んでこちらの身体も強引に起こさせた。そして、気がつくと馬謖に頬を叩かれていた。
張られた音が執務室に響いたのをぼんやりと聞いて、その後に頬にゆっくりと痛みを感じていった。
「・・・どうして、許してしまおうとなさるのです・・・」
「・・・」
「貴方の全ての過ちの根源は、その、なし崩し的な甘さ、なのですよ・・・」
「・・・」
「私たちのようなものには、・・・残酷過ぎるほどのその優しさが、人を狂わすのです・・・。無駄な嫉妬が、生まれてしまうから・・・」
「・・・」
「・・・既に、罪人の身である私が、過ぎた事を申し上げました」
そう言って、馬謖はこちらの腰へ手を伸ばした。そして、手に掴んだものを見て、目を見張った。
それは、文官達が腰に常備している書刀であった。刃はそれほど鋭く研がれてはいないが、自分の喉を突く位なら容易く出来る代物である。
慌ててその書刀を取り返そうとした。両手で馬謖の腕を掴んでも力では敵わないので、その腕に全体重をのせて床に押さえつけた。
「もう、死なせて下さい・・・!」
何とかこちらの身体をどかせようと馬謖も必死に抵抗した。
「貴方が、私の処断に迷うのならば、今この場で幼常は死んでみせます」
「・・・やめなさいっ」
「お願いします。どいてください・・・」
「・・・どうか、どうか・・・。貴方の最後は、私に区切りをつけさせて下さい」
「・・・」
「勝手な申し出である事は分かっています。しかし・・・、どうか」
お互いが揉み合っている内に、どちらかの足が執務机を強く蹴り飛ばしてしまって、その拍子にうずたかく積まれていた書簡が床に崩れ落ちた。思った以上にその音が大きく響き渡り、それを外で聞いていた費禕と文官達が血相を変えて執務室へ入ってきた。
床で揉み合う自分と馬謖。手にある書刀に、着衣をはだけさせて肩を見せている自分の異様な光景を目にした費禕は咄嗟に「入るなっ」と文官達を一喝し、執務室から閉め出した。それから「陳震殿を」と外の文官達に怒鳴ってから、こちらへ急いで寄ってきた。自分が押さえている馬謖の手から書刀を奪いとり、窓の外へそれを捨てた。その一連の所作は、普段穏やかな費禕からは想像も付かないものだった。
馬謖は今度費禕の腰にある書刀へ手を伸ばそうとして、慌てて二人掛かりでそれを押さえた。息を切らしながら執務室へ入ってきた陳震が、その光景を見て思わず息を呑み、隙間からこちらを覗き込んできている文官達を遮るようにして扉を閉めた。そして暴れる馬謖を押さえにかかった。費禕は自分の腰にある書刀も外へ向かって投げ捨てた。そして、陳震の腰についている書刀ももぎ取って同じく窓の外へ放った。費禕と陳震の二人掛かりで馬謖を執務室から引きずり出そうとしていた。
自分はふらつきながらも立ち上がって、乱れた襟をかき寄せて着衣を整えながらぼんやりとその様子を見ていた。
扉の所まで引きずられてきた馬謖が、最後の力を振り絞るようにしてこちらに身を乗り出してくる。
「丞相・・・!」
「こら、大人しくしないか・・・っ」
「丞相・・・」
「陳震殿、しっかり押さえて!」
「押さえてる!」
「丞相、・・・孔明様、本当に、・・・本当に」
「・・・」
「お世話になりました・・・」
そのまま馬謖は、費禕と陳震に力ずくで執務室の外へと連れていかれた。

 

 

一体。

   

  

どれだけの長い間、貴方と共にいた事でしょう。
どれだけの時間、貴方と過ごした事でしょう。
それの、最後が、これですか。
まだ話したい事も、聞きたい事も多くあったけれど。
もっと教えたい事も、学ばせたい事も多くあったけれど。
    

   

全ての悲しみは師である私の過ちが生んだのに。
最後に呟いた貴方の言葉が優し過ぎて。

  

  


ただただ、嗚咽。

     

         

         

                 

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