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一陣の卯花

「丞相、考え直して下さい。あと、せめて、あと一日」
「いえ、既に帰結しているのです。結論は覆しません」
撤退を決めたのは、王平の伝令が届いてから四日目の事だった。
幕舎に楊儀、廖化、馬岱を呼んで撤退する旨を伝えた際に強く反対したのは楊儀であった。
「まだ、巻き返せるかも知れません」
「既に街亭は張郃軍によって抑えられました」
「その時の為の魏延殿でしょう」
あの後、王平からの伝令が継続的に届いた。馬謖が山頂から降りる様子が無い事。実際の地形を見るに、確かに逆落としには適している場所ではあるが、地形の性質上、兵站を切られる恐れが高く、最悪の場合自軍は完全に孤立してしまう危険性。それを出来るだけ回避する為に、独断ではあるが王平軍の一部を山から出させて遊軍として伏せてあると知らせてきた。
始めは書簡に印が無かった為、どこまで信じればいいのか若干躊躇したのだが、状況分析の明晰さから王平からの書簡だと信じる事にした。
魏延に街亭に大きな懸念がある為警戒されたしとの書簡を送ったが、その直後に王平から街亭の麓を抑えられたとの伝令が届いた。更にそれとほぼ同時位に、魏延からは自軍の斥候が魏軍と接触したとの伝令があった。
そして、その戦況に至ってはじめて馬謖からの伝令が届いた。それは街亭を抑えられたという最悪の報告であった。当然印もあり、書いてある字は正に馬謖のものであった。
この報が、戦況に漂っていた曖昧さを負戦へと確定付けたのだった。
馬謖の伝令は負傷しており、麓を張郃軍に占領されているが為にそこを突破するのに苦労したのだろう。激戦の様子が見てとれた。
馬謖の書簡には、どうして山頂に布陣しようとしたかという理論や伝令が遅くなってしまった理由等が書かれていた。
確かに、その理論を読むと妥当な処置に思えるのだが、戦は理論で戦うのでは無く、状況と力で相手を伏せたか否かという結果が全てであった。結果で負ければ、どんな理論も関係無かった。言い訳にしかならない。
そして、その結果を生んだのは己の采配の過ちが全ての原因であり、その事を思うと悔しさのあまりに気が遠くなりかけるのだが、今は出来るだけ損失を出さないまま撤退する事が最優先事項である。
しかし、この出兵の為に様々な準備をし、武官も文官も膨大な数の執務をこなし、民は徴兵と租税に耐えてきたのだ。国力の全てを余す所なく注いで望んだ戦なのだ。すぐに諦めきれる訳ではない、楊儀の気持ちは良く分かった。
「魏延殿が持ちこたえれば、まだ巻き返しがきくかも知れません」
逆の立場であったら、自分がこのように食い下がったかも知れない。
だが、戦は局地的なものではない。
馬謖軍の損傷が想像以上に酷い事は王平の書簡から垣間見れた。例え魏延が持ちこたえてもそこから巻き返す体力、更にかかる労力、そして何よりそれらを賄えるだけの兵糧が無かった。この国力が、現在の自国の精一杯であった。
もう少しだけ行けるかもしれない。そう、思いたいが、総合的に考えるとこれ以上の進行は既に不可能であった。
ゆるく顔を横に振ると楊儀が襟元を掴んできた。後ろで思わず馬岱が腰を上げた様子が見えた。
目配せでそれを制しておいて、もう一度だけ静かに言った。
「撤退します」
楊儀が何か言おうとした所に新たな伝令が来た。
それは趙雲からのものであった。内容を素早く確認して思わず溜息が出た。楊儀がこちらの手にあるそれを半ば奪うようにして書簡を読む。
少しして楊儀が低く呻いて地面にうずくまった。声を押し殺すようにして泣いていた。抑えようと思っても漏れてくる嗚咽は幕舎に重く響き渡った。
廖化が恐る恐る口を開いた。
「・・・どういった内容だったのでしょう・・・」
その問いに、どのように答えるか考えたが、ここまでくれば何をこだわる必要があると思い直しそのまま伝えた。
「趙将軍からは、曹真軍を抑えたので、自軍の合流について問題無しとの報告がありました」
それを聞いて、廖化でさえ思わず深い溜息をついてみせた。

 

   

「・・・諸々の、処理はどうされるおつもりですか?」
費禕がそう聞いてきた。
街亭の敗戦後、漢中に自軍を撤退させてから数日が経っていた。
費禕に状況を説明した時、いつも穏やかなこの男でさえ涙を抑えられず目の前で泣き崩れたのを見て背筋が改めて冷やされた事を思い出す。
皆が皆、どんなに平静に日常を過ごしているように見えたとしても、それぞれに限界を超えながら執務をこなしているのだと再度認識させられた思いだった。
そして、それら全ての人間の労力を無駄にしたのは他でもない、己の采配の過ちであった。
「・・・大体は、決めています」
「・・・差し支えなければ、お聞かせいただけますか?」
「・・・申し訳ありません、まだ、お話出来る段階ではありませんので・・・」
おおまかな事は自分の中で決めていた。今回の引責で己を三階級降格して右将軍にする事も決めていた。丞相の地位にしばらく戻るつもりは無かった。正直な所、それで何が変わるというものでも無いのだが、自分の気持ちの問題と他の者達への気持ちの問題であった。政とは、そういうものであった。
また王平の昇格も決めていた。そつなく執務をこなした趙雲でさえ敗戦の連帯責任という形で降格処分とするつもりだが、王平だけは唯一昇格とする予定だ。
撤退の際の鮮やかな采配のおかげで王平の軍だけは殆ど損傷が無かったのは驚異的であったし、何より馬謖軍の状況を己の判断で状況報告してきた判断力は際立っていた。
また、馬謖ではなく王平を主将にするべきであったと主張していた者達への慰撫の意味も込めている。
今回の戦で得たものと言えば、最後まで謀反を起こす事なく自国へついて来た天水の将達と西県の住民の移住位であった。
そして最大の問題点は馬謖の処遇であった。
今回の出兵は万全の準備の元行われた。この時の為に民には辛い租税を吐き出してもらったのだ。文官達は一人で二人分働き、武将達は一人で三人分の働きをしなければならなかった。そこまでして、この為だけに皆頑張ってきたのだ。軍令違反によってその出兵を敗戦に導いた責は重大過ぎる程である。そして、それ以前に軍規に照らせば首を落とすのが当然の処遇であった。
しかし、現状として一人でも働き手は失いたくない。ましてや自分の後継者のつもりで育ててきた馬謖である。実際に、こちらの気持ちを察して「この時期に、優秀な参軍を失う事は無いと思います」と馬謖を擁護する声もあった。
かといって同時に、馬謖は自分に近過ぎた。これで人手不足を理由に首を落とさないとすれば、政敵達がわめき出すのは明白だった。
「丞相の寵愛厚かりし馬謖殿ですから、なに、数日もすれば何事も無かったように丞相の右腕に返り咲いていますよ」
と、あからさまな嫌味を吹聴するものもいれば、
「軍令違反を犯しても処断されないのであれば、さて、今から自分も丞相に媚びを売ってきましょうかな」
と、もはや挑発的な悪口を言い出すものも出てきた。
この瀕死の状態で内輪揉めをしていれば、それこそそこを魏に突かれるのは明らかだった。それだけはどうしても避けなければならなかった。
だが、どうにかして他の方法は無いものだろうかと考えた。様々な手段や言い訳を考慮したが、やはりどうしても斬らない訳にはいかなかった。最大の理由はやはり、自分に近過ぎた為である。
「丞相」
費禕がそっと言ってきた。
「実は、馬謖殿を傍に連れてきています。・・・処断もまだ決まっておりませんし、牢に入れる前に一度お会いになられてはいかがでしょうか・・・」
「・・・」
どうやら費禕は馬謖の斬首に反対なのだろう。一度会わせて、こちらの気持ちを揺らそうとしているのが分かったが、逆に思い直した。会って揺れるような気持ちであれば、会わずにどうして処遇を決められよう。
むしろ会ってから、極刑の処断を下すべきなのではと考え直した。様々な意味で、会わずに決着がつけられる訳は無かった。
結果、費禕の思惑とは反対になってしまう事を申し訳無く思いながら、
「それでは、お願いします」
と答えた。

  

   

面会の場は執務室とした。
待っていると、後ろ手に縛られた馬謖を連れて費禕と付き添いの文官が入ってきた。
「縄を、解いて下さい」
そう申し出たこちらの言葉に反対したのは付き添いの文官である。
「いえ、丞相。それは出来ません。万が一何かあった場合・・・」
「解いて下さい」
「・・・」
「また、人払いもお願いします」
「丞相、ますます承服しかねます。すぐに人も駆けつけられないとなれば」
「お願いします」
静かに言い切ったこちらを見て、費禕が小さく溜息を漏らした。
「・・・承知致しました。人払いをさせます」
「感謝致します」
「勿論、何も起きないとは思いますが・・・、万が一何かあった場合、必ず知らせて下さい。また、何か大きな物音等が聞こえた場合は問答無用で立ち入らせて頂きます。それだけ、ご了承頂けますでしょうか」
「・・・分かりました」
文官から小刀を受け取って、費禕が自ら馬謖の縄を切った。
文官の背を押して執務室を出て行く費禕の目は、こちらを小さく責めているようにも見えたし、こちらを哀れんでいるようにも慈しんでいるようにも見えた。
    

  

扉が閉まり、その場には馬謖と自分だけが残された。

    

        

         

               

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