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一陣の卯花

「え、曹叡が長安に」
幕舎に顔を見せていた馬岱が聞き返した。
「まだ情報の精度は分かりませんが、先程入った報では曹叡自ら軍を率いて長安に出てきた様子です」
「戦線、上げてきたね」
「とりあえず、続報を待ちますが、まさに望み通りです。どうやら漢中の費禕にもその報は入っているようですので、間違いでは無いと思うのですが」
「まあ、念の為ってかんじなんだろうけど、思った以上に反応が大きいね」
「そこに付け入る隙が出来ますから、あとはそれを間違いなく回収していくだけです」
「・・・街亭からの報告だけど、上がってきたかい」
「いえ、まだですね・・・。そろそろだとは思うのですが」
街亭からの報告を確認次第、郿へ兵を進めてそこからは趙雲達と合流後一気に長安へ向かうつもりだった。
「これで長安まで制圧出来れば、人口も一気に増えますし、やっと、やっと魏討伐の足掛かりが形になりそうです」
「そうだね」
頷いた馬岱を諸葛亮は微笑みながら見た。
「これからも、忙しくなると思いますが、宜しくお願い致します」
「うん。もちろんだよ。まかせて」
元気に応えた馬岱を見て、更に諸葛亮は笑みを深めた。馬岱は、それに見入った。
「・・・ねえ」
「なんですか」
「奇麗だね」
「・・・なにを、こんな時にまで」
「こんな時だからだよ。・・・だって、なんで今、自分がいつもよりも奇麗か分かってるの」
「そんなこと、分かりません」
「・・・馬良殿のこと、思い出してたでしょ」
「・・・」
怪訝そうな顔で諸葛亮は馬岱を見返した。
「無意識、なのかもね。もはや。・・・時々、そう感じることがあるよ。ああ、きっと今、馬良殿のことを思い出しているんだろうなって」
「・・・そう、でしょうか」
「まあ、勘、みたいなものだけどね。・・・なんかこう、すっごくすっごく、笑顔が優しくなるっていうか、どこかこっちを見てないっていうか・・・」
「そんなつもりは、全く・・・」
「あ、その、責めてるんじゃなくて、なんていうか・・・、きっと良い時間を二人で過ごしたんだろうなあって、思える」
「・・・」
「想像だけど、いっぱい将来のこととか、国の有り様とか、民のこととか、そういうの話し合ったんでしょ」
「・・・ええ。・・・それ以外にも、本当によく、沢山の事を話しました。こうしていきたい、ああしていきたいというものを、それこそ余す事なく」
「だから、きっとその理想に近づいている時、無意識のうちに馬良殿のことを思い出しているんじゃないかな。・・・やっと、近づいてきたよって」
「・・・言われてみると、確かに、そうかも知れません・・・。何と言いますか、良く、気付きましたね・・・。私ですら、分かりませんでした」
「ふふ。君のこと、好きだから」
その言葉に、いつもであれば照れて少し顔をしかめてみせるのだが、今日ははにかむような笑顔で応えた。そんな諸葛亮を馬岱はそっと抱き寄せて、頭を撫でた。
「よかったね。やっと、やっとここまできたってかんじだね」
囁いた馬岱の首元に諸葛亮は静かに頭を預けた。普段は滅多に見せる事のない、どこまでも穏やかな笑顔だった。
そんな彼の顎に手を添えて僅かに引き寄せた。口づけようとして、ふとお互い顔をしかめてしまった。
「いたっ・・・」
「・・・」
「あれ、君、いつも右に、傾けなかったっけ」
「・・・そうでしたっけ」
口づけようとして、お互いの鼻が当たってしまったのだ。どこか間抜けな自分達の姿に、どちらともなく笑い出した。
「・・・なんか、いい歳して、なにやってるんだろうねえ、俺たち」
「ふふ。・・・本当ですね」
声を出して笑った諸葛亮を、心から愛おしそうに見つめて、頬を撫で、もう一度口づけをした。今度はお互いちゃんと、右に首を傾けて。
しばらくして口を離して相手を見つめた後、二人は柔らかく笑い合った。

   

   

後日、幕舎に楊儀、廖化、馬岱を呼んで街亭を制圧した後の動きについて軍議を開いていた。魏延は念の為に街亭の少し後方に詰めさせていた。馬謖を信用していない訳では無いのだが、念には念を入れておくに越した事は無い。万が一、馬謖と王平が崩れた場合の、最後の砦であった。
円陣を組んで胡床に座り、想定出来うる限りの問題点を出しながら話合っていた。
しばらくすると、ふと外が騒がしくなった。馬の嘶きが聞こえて、歩哨の声が外から聞こえてきた。
「伝令が到着致しました」
その言葉に皆が顔を見合わせた。街亭からの知らせだろうか。
いらえを返すと伝令が入ってきた。諸葛亮は伝令の手首を見た。そこには麻を撚った紐が結びつけられていた。それは自軍の伝令である事の証拠だった。偽報を敵軍へ送り込み情報撹乱する戦法もあるので、それを防ぐ為に自分達だけが分かる何かで印を付けさせているのだった。それは戦毎に変え、今回はこの麻の紐であった。
「自分は趙将軍の伝令であります」
皆どこか緊張した面持ちであったのが、その言葉に少しはぐらかされたというような、僅かな焦燥と安堵が入り交じった表情をした。
「ご苦労様でした」
伝令からの書簡を受け取り、その巻末をまず検分した。これもまた、自軍の書簡であるという事を証明する為に付けさせている小さな印があったのだ。それは末尾の書簡の竹だけ、ひと指分短くしてあるのだった。それを確認した後、書簡に目を通した。
「・・・趙将軍の方は順調ですね。とりあえず問題は無さそうです」
目配せで伝令を下げさせた。こちらから送る書簡を持たせる為に、別の伝令を用意するよう諸葛亮は外の歩哨に頼んだ。
しばらくしてこちらから向かう伝令達が幕舎に入って来た。その数計八名である。途中で万が一脱落する可能性、敵に見つかる可能性などを考えて伝令は一度に何人かを向かわせるのが通例であった。その者達に元から用意していた書簡を渡して送り出した。
入れ替えの様に、また伝令が入って来た。
趙雲からの伝令が重複して届き出したのかと思いながら皆はその伝令を見ていた。
「王平殿からの伝令になります」
その言葉に、一同は顔を見合わせた。
「・・・王平殿の。・・・馬謖殿の伝令では、無く」
戸惑った様子で廖化が呟いた。
諸葛亮は伝令の手首を見た。麻の紐が付けてあった。
「とにかく、書簡をこちらへ」
受け取った書簡の末尾をまず確認した。それを楊儀、廖化が覗き込んできた。
「・・・印が、ありませんな」
「内容は、何とあるのですか」
読み進めていく内に、諸葛亮の顔が険しくなっていくのが見てとれた。最後まで一度読み、また最初から読み返していた。その様子を、三人が緊張した様子で見守っていた。
諸葛亮は傍で立ったままの伝令に聞いた。
「これは、確かに王平から貰ったものですか」
「はい」
「これを、誰が書いたか分かりますか」
「いえ、そこまでは・・・」
見た事の無い字であった。当然、馬謖のものでは無い。王平は字が書けないから誰かが書いたのだろうが、印も無い為、この情報の真偽に正しい判断が出来ないでいた。しかし、伝令は自軍の者である。
「丞相。・・・内容は、いかがでしょう」
恐る恐る聞いてくる楊儀に、諸葛亮は静かに返した。
「馬謖が、街亭の山頂に布陣した様です」
その言葉に、一同息を飲んだのが分かった。
「ど、どうして」
「一応、この書簡には、現地に到着した馬謖が地形を実際に見るに、やはり山頂に布陣した方が良いと判断した為、とあります」
「しかし、それを何故馬謖殿の伝令が知らせを寄越さないのです」
「・・・これには、王平はかなり強く山頂の布陣について反対したとあります。その為、馬謖と王平の間で反目が起きたようです。その後馬謖は王平の進言を聞かず山頂に布陣し、王平は何かあった時の為にすぐ動ける様に、山の木々に兵達を潜ませているようです。馬謖からも後ほど伝令が来るかも知れませんが、緊急性を感じて王平がすぐに知らせを寄越したのでしょう」
「・・・しかし、印が無いのが気になりますな・・・」
「もしかしたら、王平殿自身が書簡をしたためたり読んだり訳ではございませんので、印の事を知らなかったとも考えられます」
「・・・そうですね。どちらかというと、この書簡は真である方の可能性が高いように思えます、まだ、推測の域を出ませんが・・・」
そう呟いた諸葛亮の言葉に、皆押し黙ってしまった。
少しして、馬岱が口を開いた。
「・・・どう、するの。これから」
「まだ、一報だけですから、続報を待ちます。待てる時間にもよりますが、馬謖からの知らせもまだ届いていない状態ですし」
「魏延殿への知らせはどうします」
「まだ、知らせません。こんな不明確な状態であちらを混乱させても仕方ありません。もう少し、状況に確証が持てたらにします」
この日はそれ以降どこからの伝令も届かなかった。
諸葛亮はひとりで考えたいからと皆をそれぞれの持ち場へと戻した。
誰が書いたか分からない書簡を眺めながら、諸葛亮は動揺を感じていた。気持ちとしては、これは偽の情報なのだと思いたいし、仮に正しい情報であったとしても、馬謖が思い直して速やかに山を下りてくれる事は無いか、とも考えた。そこで、間に合わないかも知れないが、もし山頂に布陣しているのならばすぐに下山する命令をしたためた書簡を何通か作成して、早速伝令達に街亭へ向かわせた。
後は、夜更けまで最悪の場合をいつくも想定し、他の様々な状況も想定して構想を練り直した。
一番の問題は、どの時点で撤退の判断を下すか、という事であった。
思いつく限りの状況を考え抜き、それに対する答えを導き出している内にいつのまにか幕舎の外が明るくなっている事に気がついた。
馬謖は何故山頂に布陣したのであろう。実際に現場を見て、山頂の方が有利だと判断するまでは特に珍しい事ではないので分からなくも無いが、そこで経験が豊富な王平が強く反対している事が気にかかる。
馬謖の、どこか焦りのような、何かを急いでいるような強行とも取れる行動がどうしても理解が出来なかった。

   

   


偶然というものが重なって、どうか、何事もなく収まってくれと念じた。
朝鳴きの鳥の声を遠くに聞きながら、そのように思うしか、今は手立てが無いのであった。

  

      

       

             

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