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一陣の卯花

天水は今日も風が強かった。
幕舎の裾を激しくはためかせ、砂埃を上げるそれは、こちらの汗さえ奪っていきそうな勢いであった。
「廖化、どうですか、その後様子は」
「今のところ、変化はありません」
天水の駐屯所。
諸葛亮の幕舎から出たすぐの所で彼と廖化が立ち話をしていた。
歩哨達の鎧音や陣営を組み立てる作業音を覆い尽くしそうな風が吹き荒れていたので、諸葛亮は思わず廖化の方へ少し顔を寄せた。近くに立っていても声が風でかき消されそうだった。
それを察した廖化も少し諸葛亮に寄り、声を大きくした。
「彼らの様子を見るに、恐らくすぐに謀反を起こす状態でも無いと思いますので大丈夫かとは思いますが・・・」
「ええ・・・。ですが、僅かな変化であっても、何かありましたら念の為にすぐに知らせて下さい」
「承知致しました」
そう拱手の礼を取ってから廖化は立ち去っていった。

  

   

彼らとは、この天水を守っていた魏の将、梁緒、尹賞、梁虔、姜維であった。
漢中を出た後、元々の段取り通り趙雲とその副将鄧芝は郿を奪うと大々的に宣伝しつつ進軍を開始した。その勢いは正に熟練趙雲の迫力をまとっていて、その動きにまんまと呼応させられたのは曹真だった。面白い程こちらの思惑通りに郿へと軍を集めてくれたのだった。
その隙に諸葛亮らは祁山へと軍を進めた。そこで過剰反応を示したのは天水の馬遵であった。
たまたま天水を離れていた馬遵は本来郿にいるはずの益州軍がこちらにも進軍して来たので驚いたのか慌てて天水へと戻り、更に疑心暗鬼に捕われて己の部下達を閉め出して自分たちは逃走するという将にあるまじき行動を取ったのだ。
残された将達はもはや哀れでしかなく、恐らく周囲の説得もあったのだろう、渋々といった体でこちらに面会を申し出て来たのが先の四名であった。
梁緒、尹賞、梁虔は既に仕方なしという感じでこちらに帰順を申し出てきた。姜維という将も一緒に帰順をしてきたのだが、その表情を見るにどうにも悔しさが拭いきれないでいた。経緯を考えると当然であった。今まで尽くしてきた魏に、上官にあっさりと裏切られたのである。それをすぐに思い切れる程、まだ大人になりきれていない、そういった風情であった。
その様子を見て、これは少しだけでも話しておいた方が良いかもしれぬと判断した諸葛亮は姜維と二人きりで話す事にした。
それに大きく反対をしたのは楊儀と廖化であった。何かあったら取り返しがつかないので、どうか止めてくれと嘆願してきたが、幕舎の外で魏延と馬岱に様子をみさせるという事で不承不承引き下がらせたのだった。

  

   

武器を一切取り上げてから、用意させた胡床に向かい合うように座らせた。
諸葛亮としてもこの青年がどういった人物か全く検討が付かなかった為、こちらから話し合いの場を設けたにも関わらず、一言も口を開かずに様子を見る事にした。まずはこれで相手の忍耐力を計るつもりだった。
幕舎の外で木槌を打ち鳴らす音、歩哨達のかけ声、合間に混じる笑い声などが絶えず聞こえてきた。
しばらく経っても姜維は何も言わず、こちらを伺っているだけであった。
膝の上に置いた手を動かす事もせず、咳一つせず、ただただ待った。
成る程、これはもしかしたらそこらの将とはどこか違うかも知れぬと感じた瞬間であった。
忍耐力がある事は分かったので、これ以上時間をかけても仕方なしと思った諸葛亮は口を開いた。
「・・・貴方は、天水では何の役職でしたか」
「中郎です」
「若いのに。良い事ですね」
「・・・」
「いくつですか」
「今年で二十七に相成りました」
「・・・」
その年齢に驚いた。若いというのもあったが、その数自体に胸を突かれたのだ。思わず、吐息が漏れた。
その様子を姜維は黙って伺っていた。
二十七と言えば、自分が劉備殿に仕官した年齢と同じであった。そして、その頃の殿は四十七であり、今の自分とひとつしか違わなかった。
ああ、あの頃の殿から見れば自分はこんなにも若造であったのかと、改めて過ぎた年月の大きさを知った。
この話をするべきかどうか少し迷った後、やはりする事にした。
話を聞いた姜維は少し表情を動かした。
「・・・私と同じ歳で、わざわざ仕官を請われたのですか」
「そう言うとどこか大きな話に聞こえますが・・・、あの頃どうしても軍師が欲しかった殿の、苦肉の策であったのでしょう」
そう言いながら笑ってみせた。
姜維が思わず息を呑んだのが分かった。こちらが笑ったのがあまりにも意外だったのだろうか。
「姜維・・・、貴方、悔しいでしょう。その気持ちは、こちらも出来るだけ汲みます。ただ、自分達が一番分かっていると思いますが、もはや国には戻れないでしょう。それであれば、すぐに気持ちが切り替わる事は難しいと思いますが、どうかこちらのお手伝いをして頂けないでしょうか」
その言葉に驚いたのか、少しの間呆然としていた姜維ははじかれるように胡床から立って、諸葛亮の膝元に平伏した。
その物音に、外にいる魏延と馬岱が殺気立ったのが分かった。ただ、押し入ってくる事はせず、警戒を増して中の様子を伺っていた。
「こちらこそ、敗将に過ぎない私達の事を気にかけて下さいまして、恐縮の至りでございます」
「いえ、謝罪が必要であれ、礼を言われる筋合いはありません。どうか、顔を」
そう言って、諸葛亮も席を立って姜維の傍にしゃがんでみせた。その様子を見た姜維が顔を上げた。少し硬直した様子で諸葛亮を見てきた。
どうやら、上官にここまで近づいて接されることが今まで無かったのかも知れない。大国の魏であれば、それもどこか頷ける話であった。
「慣れない事も多いと思います。そういった時は、遠慮せず周りの将に相談をなさい。万が一の際はこちらに直接言ってもらっても構いません」
そう言って姜維の肩に手をかけた。やはり緊張しているのか、つと顔を背けてしまった。その様子を微笑ましく思い、諸葛亮は姜維を幕舎から出して、心配してこちらを伺っていた梁緒らの元に戻るまで見守っていた。
それを見た馬岱がすみやかに諸葛亮の元へ寄ってきた。魏延はもはや護衛の必要は無いと思ったのかさっさと自分の配置へ戻っていった。
「・・・様子は、どう」
「恐らく・・・、大丈夫だとは思います。ただ、これから魏の中へ進軍して行く訳ですから、いつまた寝返るとも分かりませんので廖化に監視を頼むつもりです」
「うん、そうだね」
そう言った馬岱が姜維の方を見て息を呑んだ。
対する姜維はこちらをじっと見つめている。
「君・・・」
「どうしましたか。・・・まさか、知った顔ですか」
「いや、そんな訳ないじゃない。若過ぎるよ。そうじゃ無くて、君、何話したのさ・・・」
「え」
「気付かないの」
「意を得ません。・・・もう少し具体的に」
「ああ、もういいよ。・・・なんか疲れた。・・・ほんと疲れた」
大きな溜息を漏らして馬岱も自分の持ち場へと戻っていった。
意味が分からない諸葛亮はそんな馬岱の後ろ姿を見て、首を傾げた。振り返る気配の無い彼から、思わず姜維へ視線を戻した。まだ姜維はこちらを伺っていた。よほど、腰を折って話をする丞相が珍しかったのだろう。
そう思いながら近くにいた歩哨の一人をつかまえて廖化を呼んでくるよう頼んだ。
そして、それら全体の様子を見つめていたのは、街亭へ進軍準備をしていた馬謖であった。諸葛亮を見続ける姜維を、馬謖が同じくらい見続けていた。

     

   

そうした後日、馬謖が街亭へと軍を進める日が来た。
ここで街亭を抑えたのち全軍が郿から長安へ向かう予定であった。
天水から出て行く前、不安感が拭えていない面持ちの馬謖を幕舎に呼んだ。
「・・・恐い、ですか」
「はい・・・」
「貴方なら、きっと大丈夫。色々と話をしたでしょう。それを、忘れずに。いいですね」
「・・・はい」
それでも固い表情の馬謖を見て、諸葛亮はどうするべきか少し迷った。
言葉で言ってもこれ以上緊張は解けないと察し、少し子供騙しかとも思ったが馬謖を自分の元へ引き寄せて柔らかく抱きしめた。そして、優しくその頭を撫でた。
馬謖の身体が強ばったのが分かった。それを感じて、更にもう少し抱きしめた。馬謖が思わず諸葛亮の袖を強く握った。
そうして身体を離すと、馬謖が下を向いて小さく震えた。
溜息をついて、静かに馬謖の顎へ手を添えて上を向かせた。すると驚く事に馬謖は噛み殺すように泣いていた。
「馬謖・・・、幼常」
「・・・お気に、かけて下さったのに、申し訳ございません」
「いえ、そこは気にせず・・・。幼常、皆、はじめは恐いものですよ」
「・・・そう、ではなく・・・」
「・・・どうしたのです」
その問いかけに馬謖はしばらく応えなかった。さすがに少し戸惑った諸葛亮がどうすれば良いのか考えあぐねて、思わずその涙を指で拭ってやった。
その指を馬謖はそっと掴んで、声を絞るようにして漏らした。
「・・・丞相に、私の気持ちは、お分かりになりません・・・。どれほどのものなのか、貴方には、きっと」
「・・・」
「・・・取り乱し、失礼致しました。・・・必ず、吉報をお持ちします」
そうして、こちらが何かを言う前に馬謖は背を向けて幕舎を出て行った。
その様子を見て、諸葛亮はどこか悪い予感を抱いたのだが、すぐにそれを振り払った。
馬謖を追う様に幕舎を出て、準備をしている彼を見守った。そして、その中にいる王平を手招きで呼んだ。
「王平。この度は貴方を頼るような形になってしまい、申し訳ございません。どうか、主将の補佐をお願い致します。場合によっては、強く言っても構いません」
「いえ、こちらこそ、お役目有り難うございます。必ず、街亭を取って参ります」
「宜しくお願い致します」
そう言った諸葛亮に拱手の礼を取ってから軽やかに王平は軍へ戻って行った。何かあっても、どうか王平が補佐してくれるだろう。
馬上に見える馬謖が一瞬季常に見えた。季常も文官の割によく馬を乗りこなしたものだった。既に季常の歳を越えてしまった馬謖。それを想い、深く溜息をついた。
剛風に巻き上げられた砂埃に思わず目を細めた。
ふと、馬謖が笑ったように見えた。しかし、それはどこか悲しくも見え、その真意を確かめようと目を凝らした時には既に馬謖は背を向けていた。
それを見て、ただただ、こちらは見守るしかなかった。

  

   


本当に、風が煩いほどに強かった。

 

    

     

           

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