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一陣の卯花

「・・・大丈夫なの」
廊下で会った馬岱が唐突に聞いてきた。
今回の出兵には趙雲、魏延の古参を引き連れて来ている為、馬岱は成都に置いてきたかったのだが、度々遠征調練と称して漢中の駐屯所まで遊びにくるものだから困ったものだった。そのうち大司農から泣きの一報が寄せられてきて、仕方なく遊軍という位置づけで正式に漢中まで招聘したのだ。これ以上財政を逼迫するような事をされては堪らなかった。
以前にどうして何度も漢中に来るのかと聞いた事がある。
「だって、君に会いたいもの」という言葉に「では、かかった遠征費用は貴方の石から引いておきます」と返しておいた。勿論冗談だが、これ以上は困ると言いたかったのだ。
ただ、馬岱自身は軽い動機の様に言っているが、本心が違う所にあることは諸葛亮も理解していた。
恐らく心配をしているのだ。弱小とは言え一国の丞相が直々に戦陣へ立って行軍するのだ。龐統のように流れ矢に当たらないとも限らないし、普通に考えれば暗殺にあう可能性だって否定出来ない。その為か、以前よりも出来るだけ傍にいようとする努力が伺えた。有り難い話ではあるのだが、馬謖などは執務がやりづらいのか少し嫌そうな顔はしていた。
「・・・何がですか」
「顔色、最近ちょっと悪くないかい」
「いつもと、変わりませんよ」
そうやってやり過ごそうとする諸葛亮を馬岱がまっすぐに見つめる。まだ、何か言いたそうであった。
「・・・執務室に、行きましょうか」
そう言って、二人は無言で執務室へ入った。
諸葛亮は持っていた書簡を机に置き、棚からもいくつかの書簡を抜いて、机に付いた。その様子を馬岱はずっと眺めていた。
「馬謖殿の事、聞いたんだけどさ」
「・・・」
「なんか、近頃変じゃない」
「何がですか」
「なんでそんなに急いでるのってかんじ」
「急ぎもします。前途多難なうえに、時は有限です」
その言葉を聞いた馬岱は諸葛亮の傍に寄って来た。
不意に諸葛亮の顎に手をやり、自分の方へ向かせた。
「・・・なんですか」
「目、逸らさないで。ちゃんとこっち見て」
「・・・」
「なにか、隠してないよね」
「何を・・・。執務上の事は隠し事だらけですよ」
「そうじゃなくて、・・・例えば身体の事とか」
「ああ、そういう事ですか。別に、何も」
そう言いきった諸葛亮を、半ば強引に抱きしめて口づけを落とした。片腕を首に回して逃げられないように。もう片方の手は腕を撫で、背中から腰へ、そして袂を割ってそこを触った。
「ちょ、・・・止めて下さい!」
普段、馬岱が執務室では口づけ以外、このようにしてくる事が無かったので思わず諸葛亮は強く抵抗をした。勿論、恥ずかしさもある。
馬岱はすぐに腕を外した。諸葛亮は一体どうしたのだと彼を見た。馬岱は諸葛亮の手首をそっと持った。意味が分からず黙ってされるままになっていた。
小さく、どうしようもない、というふうに馬岱は笑った。
「・・・やっぱりさ、細くなったよね。・・・そんで、力も弱くなってるよね・・・」
「・・・私は、貴方達のように、身体を動かしておりませんから」
「いや、違うでしょ・・・」
「・・・」
「ねえ、ちゃんと、食べてるの」
「・・・食べてますよ」
「本当に、嘘つきだよね・・・」
「貴方が、心配性なだけですよ」
「そりゃあ、心配性にもなるよ」
そう言って馬岱は諸葛亮をそっと抱きしめた。子供をあやす様にその頭を何度も撫でた。
しばらくしてから、一度身体を離し、見つめて、また口づけをした。
「・・・無理、しないでね」
「貴方って、時々、こちらが締め付けられるような、悲しそうな顔をしますよね・・・」
「・・・君の事が、好きだから」
「私が、そういう顔をさせているのですね・・・」
「そうだよ。・・・だから、本当に、自分を大切にしてね。そして、俺を安心させてよ・・・」
「努力、します」
「約束は、してくれないの」
「・・・」
「だめ。笑ってごまかそうとしないで」
「約束に意味は無いでしょう」
「だめ。そうやって言いくるめようとしないで」
「・・・分かりました。約束、します」
「うん。よく出来ました」
そう言って笑ってから、馬岱は何度か諸葛亮の頭を慈しむように撫でてから、執務室を出ていった。
少しの間、諸葛亮は馬岱が出ていった扉を眺めて、またいつも通りの執務に戻るべく筆を取った。

  

   

「貴方・・・、簡単に登ればいいと言いますが、では実際はどのようにして登るのです。そもそも、自軍の歩兵と騎兵の割合を考えていますか。馬はどのように登らせるのです。通常の山道であればいいですが、馬は崖を登れませんよ」
「でも、縄等で上から引き上げれば可能です」
「ではその縄の調達はどこでするのです。第一、上から引き上げるのにはそれなりの土台が必要になります。ひょいと馬の玩具を手で持ち上げるようにはいかないのですよ」
諸葛亮は溜息をつきそうになって、思わず飲み込んだ。
部屋で夕餉を取りながら馬謖と戦略の話をしていた。
机をもうひとつ持ち込んで、そちらには街亭の地形図を広げた。それを見ながら、思った事を話し合った。
地形図は細作達に現地を見にいかせ、何人もの説明を元に作成し、更に関中辺りで商人向けに売られていた地形図も入手させてきた。それらを組み合わせて作成した図である。
「貴方、兵站の事を考えていますか。地形図で見れば一本の線に見えますが、実際は既に切れていますよ。分かりますか」
「・・・」
想像以上にまだ学問上で兵法を捉えているという印象を受けた。今まで何度もこういう話をお互いでしてきたが、実際に指揮を執らせようとすると、馬謖も変に緊張してしまっていて冷静になりきれていないのが分かった。考えすぎてしまい、いつの間にか学問上の話に捕われる事がままあった。
しかし、ここで初指揮を伸ばせば伸ばす程、本人の為にならなかった。始めは出来ないのが当たり前。だからこそ王平を副将に付けたのだ。
また、諸葛亮自身も全軍を率いて自らが出兵する事にそこまで慣れてはいなかった。軍師中郎将の時であっても、軍事関係は劉備が自らこなしてきたし、軍師も龐統や法正が先陣きって担当をしてきたので、基本的に諸葛亮は留守を預かり内政に徹する事が多かった。
その為に諸葛亮は趙雲や魏延に良く意見を仰いだ。時には却下する時もあるが、基本的には経験不足の者が経験者に話を聞き、それを受け入れる重要性を痛感していた。お互い経験不足であったとしても、諸葛亮と馬謖の大きな違いはそこであった。意見を受け入れないという危険性の高さを長い経験から良く知っていた。
馬謖はまだ、経験者から素直に話を聞く事の大切さを分かっていなかった。
その為、一度ここでその鼻を徹底的に折っておくか否か少しの間迷った。
この方法は人を選ぶ。考えた後、やはり馬謖相手には止めておこうと考え直した。
「馬謖、どうして山頂に布陣する事が良いと思いますか」
「それは、兵法にそうあるからです。高所に布陣する事により、高低差を利用した強襲が可能となる為です」
「確かに、それは基本的な考え方です。しかし、この街亭の地形を見るに、その必要はありません。何故であればこの隘路を守りさえすればそれでこの戦は済むからです」
「しかし、撃退するには、やはり高所から攻撃をして、敵軍を蹴散らす方がより効果的だと思いますが・・・」
「守ればいずれ相手は撤退します。その方が兵を無駄に減らす事もありません。また山頂に布陣してはいけないもうひとつの理由があります。分かりますか」
「・・・」
「先ほども話が出たように、兵站が切れるからです。ですので、どちらがより効果的かというより、隘路の守備しか道が無いのです。実は二者択一ではありません」
「であれば、敵軍もそれを分かっている筈。私であればこちらに分からないように、逆に山頂に登ってから背後へ回る事も考えます。そうした場合、どのようにすればいいのでしょう」
「それを、貴方が考えなさい。それが、指揮を執るという事です」
「・・・」
馬謖に考えさせている間、諸葛亮は書簡を捌いていた。処理をしなければならないものは際限なくあるので、とにかく手を動かせる時に動かしたい、という働き具合であった。
「そうそう、残りは貴方が食べなさい」
書簡から目を離さずに諸葛亮は言った。
夕餉を一緒に取っていたが、諸葛亮は既にいらないようだった。その言葉に地形図から顔を上げた馬謖がその表情をしかめた。
「・・・丞相、それしかお召し上がりになりませんか」
「私は身体を動かしている訳ではありませんし、あまり空きませんから」
「・・・それにしても、少な過ぎませんか」
諸葛亮は麦ひとくちと瓜を少し食べただけだった。
本当は何も食べたくは無かったが、先ほどの馬岱の言葉が思い出されて少しだけでもと口にしたのだった。
「馬謖、答えは出ましたか」
「・・・戦線の移動です」
「どこに移動しますか」
「・・・下げます」
「どこまでですか」
「隘路を出る手前まで」
「・・・それも良いのですが、より効果的なのは隘路から少し漢中側に戻った所です。当然、全ての街道に兵を配置します。そこで隘路から出て来た敵を叩くのが有効です。兵力差があればある程効果が見込める戦線の配置方法です」
夕餉が終わり器を下げさせた後も、二人は思いつく限りの事を話した。夜も更け、寝台に上がってからも話をし続けた。
ある程度兵法関係の話が底を尽きかけてきた頃、ふと諸葛亮は馬謖を見つめた。馬謖はそれに気付き、どうすれば良いのか分からず顔を固くしていた。
そうしていると諸葛亮が馬謖の背中に手を添えた。
「背筋、もう少し伸ばして」
そう言って背筋を伸ばさせた。しかし、どこか何かを納得してないふうであった。
「・・・なんでしょうね」
そう言って諸葛亮は馬謖の顎に手を添えた。馬謖が緊張した面持ちで更に表情を強ばらせた。
顎を持って、少し引かせた。
「顎をもう少し引いた方が良いかも知れません。あと、普段から手はあまり動かさないように。小心者に見えます」
「じょ、丞相。その、・・・」
「言葉の語尾ははっきりと、区切るように言葉を発しなさい」
「・・・はい」
「貴方は偉丈夫なのですから、もっと堂々としていなさい。それだけでも相手に与える印象は大きく違ってきますから。これは将になる際に非常に大切な事です。下から舐められる事があっては話になりませんし、上から舐められても、やはり話になりません」
「・・・はい」
諸葛亮も武官に劣らぬ偉丈夫で、それこそ軍議の際に発する迫力は無言で一同を黙らせる程であった。勿論そこまでとはいかなくとも、そろそろ貫禄を持って欲しい、というのは師としての願いであった。
「・・・幼常、不安ですか」
「はい・・・、とても不安です」
「それが普通です。私も初めて戦に立った時は本当に恐かったです。ましてや自分で指揮を取るとなると、未だに身体が震えます。自分の采配ひとつで多くの兵が死んでしまうかもしれない。それは、本当に恐い事です。ですから、貴方の不安は当然で、何も貴方が臆病者だからではありません。いいですね」
「はい・・・」
「では、寝ましょうか」
「・・・私は、厠に行ってからにします」
「そうですか。では、先に休んでいます」
厠に行ってしばらくした後、馬謖は部屋に戻ってきた。
見てみると諸葛亮は既に微かな寝息を立てていた。馬謖は寝台に上がってから、しばらくその様子を見ていた。思わず手を伸ばしかけて、一旦止め、それでも恐る恐るというふうに諸葛亮の額にかかっている流れるような髪をそっとかき分けた。心から愛おしそうにその額を静かに撫でて、頬も撫で、僅かに唇にも触れた。顎に手を添えて、その唇に口づけを落とそうとしてから思い直し、目尻に口づけをした。そうして深い溜息を付いてから、諸葛亮とは頭を逆にして馬謖は身体を横にした。
寝息を立てていた諸葛亮は、ふと小さく目を開けた。ぼんやりとどこを見るでもなく少しの間目を開けた後、また閉じて、馬謖に聞こえないような仄かな溜息を漏らした。

   

  

     

     

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