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一陣の卯花

「子午道を抜けて長安に行けばいい」
その魏延の言葉に一同静まり返った。
漢中の軍議室。丞相諸葛亮を筆頭に、司馬魏延、鎮東将軍趙雲、参軍である楊儀、費禕、廖化、馬謖、そして王平、鄧芝、記録をとる為に主簿が顔を向かい合わせて座していた。
北伐に向けてどういった進路で軍を動かしていくかという議題に、魏延がそう献策してきたのだ。
「長安を守護する夏侯楙は頭が悪い上に臆病者と聞いた。曹家の縁故でそこに就いているような若造だとな」
「・・・それで」
「私に熟練の兵五千とその兵糧をいただければ長安をとってきましょう。何、十日もかかりません」
「随分な大口ですな、司馬公」
魏延の献策にまず難癖を付けたのは楊儀だった。
「大口。どこがです」
「余りにも奇策過ぎますぞ」
「奇策。ではどうされるのが上策ですかな。先の孟達の件で一度失敗しているのです。司馬懿の鼻を明かすにはこれ位の事をしませんと話になりませんぞ」
「では、長安を落とした後に天水、陳倉、下弁周辺を急いで制圧するのですか。一度の挟撃で御せる数ですか」
「ちんたら西から行くよりはずっと良い筈。いきなり長安へ行けばそれだけ浪費する兵糧も少なくなる。・・・いかがか、丞相」
確かに、悪い策では無い。機動性に優れ兵糧の消費も僅かで済み、非常に効率的な策であり、兵力財力が少ない自国にとっては最善の策に思えなくはない。ただ、楊儀の懸念にもある通り、長安を落としてからの方が難しい話になる。下手をすれば長安をとった直後に再度制圧しかれない、危うい策であった。長安が王手であればやる価値があるが、そうでは無い。やはり受諾する訳にはいかない策であった。
「献策を却下します」
「・・・何と。これこそ最善の策ですぞ!それを退けられるか。・・・やはり丞相は臆病者だ。まるで女のようですな。孝直殿であれば必ず諾とした筈であろう」
「貴様、魏延!丞相に向かって何たる言い草。おい、直られよ」
魏延の罵り言葉に楊儀が食って掛かった。しかし魏延は一向に構う気配は無い。それを見かねたのか、楊儀は隣にいた主簿の硯を掴んで墨をひっかけようとした。
それを見た諸葛亮は手元にあった竹簡を思いきり机に叩き付けた。
鋭い音が軍議室に響く。
王平や馬謖は緊張の余り息を詰めているのが分かる。
遠くで一声、鳥が鳴いたのが聞こえた。
廊下を歩く誰かの足音も軍議室の中へ入ってくる。
楊儀は一旦は上げかけた腰をそっと下ろした。
つまらない諍いに割いている暇は無かった。二人の口喧嘩を諌める事すらせず、諸葛亮は策の説明を始めた。
「まず、斜谷道から郿を奪うと宣伝し尚かつ実際に進軍します。しかしこれは囮です。そうして魏軍を郿周辺に集めます。その間に関中西部の三郡、南安、天水、安定を制圧します。その次は、街亭を抑え、陳倉から郿の自軍へ合流後、長安へ向かいます。これが本出兵のおおまかな流れです」
そこで、魏延が笑い出した。
「あまりにも面白味がない戦略ですな。それ位、塾に通う子供でも思いつきましょうぞ。これでは長安に向かうまでに皆が老いさらばえてしまいます」
そう言う魏延にまたも楊儀が声を荒げた。
「本当に、貴様という奴は・・・!」
今度こそ席を立った楊儀は魏延に掴みかかった。それを同じく席を立った魏延が腕一本で払い除ける。突き飛ばされて尻をついた楊儀はそれでもめげずに罵り言葉を放ち続けた。
丞相を除けば、軍事最高責任者である司馬の魏延に口出しをする者はそうそういないのだが、楊儀だけは昔から魏延とそりが合わず軍議で顔を合わせては口喧嘩をするのが通例となっていた。とは言え、魏延も楊儀も優秀な将軍と参軍である。人手不足である現状を考えるとどちらかを降ろすという訳にもいかなかった。
溜息を漏らす諸葛亮の隣にいた古参趙雲が呆れた顔で声を上げた。
「ご両名」
費禕は床に腰を下ろしたままの楊儀を起こし、席に座らせた。
「・・・それで、配置はどうされるのですか」
空気を変えるように鄧芝が口を開いた。
「まず、緒戦になる郿への進軍は趙将軍にお任せ致します。副将は貴方、鄧芝に任命します」
「承知致しました」
「残りの者達で祁山へ向かいます。その後、後顧の憂いを断つ、街亭への進軍は馬謖、貴方がやりなさい」
その言葉に一同が息を飲んだ。馬謖においては顔色が少しずつ白くなっていく様にも見えた。
「・・・馬謖殿が、副将・・・ですよね」
恐る恐る聞いてくる廖化に諸葛亮はきっぱりと返した。
「違います」
「・・・信じられぬ!では、副将は」
声を荒げた魏延が聞いてきた。
「副将は王平に頼みます」
「・・・いや、丞相。どうされたのだ。馬謖殿を街亭に。それこそ無謀であろう。せめて経験が豊富な王平殿と入れ替えるべきだ」
「いえ。馬謖に指揮を執らせます」
「・・・とんだご寵愛ですなあ。はあ、かないませんなあ」
せせら笑う魏延の言葉に馬謖は小さくなっている様に見えた。それを見た諸葛亮は声を厳しくした。
「馬謖。貴方ももう良い歳です。堂々としていなさい」
その言葉に顔を咄嗟に上げるが、やはり表情は強ばっていた。
「・・・しかし、丞相、こればかりは魏延殿の言葉にも理があります。一体、どういうお心づもりで馬謖殿を街亭へ置くのですか」
普段あまり反論をしない費禕でさえこのように聞いてきた。
「馬謖にもそろそろ経験を積ませないとなりません。その為に、補佐として経験が豊富な王平を副将にあてたのです」
「・・・それであれば、何も街亭で無くても良いではありませんか。せめて郿へ向かう間の進軍の指揮を任せるとか・・・」
「それでは意味がありません。今までと同じです。街亭は三郡を平定した後に進む場所ですので、そういう意味ではまだやりやすい筈です。挟撃を心配する必要もありません」
それでも一同はどうにも腑に落ちないといった風情であった。
「馬謖、出来ますね」
「・・・丞相。・・・私に出来るのでしょうか」
「不安であれば、王平の進言を良く聞くようにしなさい」
「・・・」
どことなく不満そうな顔である。馬謖は実戦経験が少ない為か、未だに学問へ傾倒している姿勢があった。それを払拭させる為にも王平から学んで欲しい事は沢山あるのだが、対して王平は陣中で育った為か読み書きすら出来ぬ人物である。しかし、その頭は非常に明晰で『史記』『漢書』あたりは誰に教わったのか、諳んじる事までは出来なくでもその内容はよく理解し、その事について議論も交わせる程であった。ただ、そういった読み書きが出来ない王平の事を学者肌の馬謖が好ましく思っていないのは知っていた。それであるからこそ、王平と一緒に行動をして色々と気付いて欲しいと考えたのだ。
「分かりましたか」
「承知致しました・・・」
「後ほど、それぞれに詳細な指示書はお渡しします。再度明日軍議を開きますので、それまでに目を通しておいて下さい。細かい指示や作業に関しての質問は明日お願い致します。その他、全体的な事についての質問はありますか」
諸葛亮の言葉に皆黙ったままであった。
「それでは散会とします」
各々立ち上がり礼を交わした後、そのまま部屋を出て行った。運悪く魏延と楊儀が出口付近でかち合いそうになるのを、費禕が何気ないふうを装って楊儀を呼び、簡単な質問をして、二人の衝突を巧く回避していた。
馬謖が残って諸葛亮を見てきた。
「どうしましたか」
「丞相・・・。やはり、不安です」
「・・・分かりました。今晩、部屋に来なさい」
その言葉にどこか安堵したふうの馬謖を見て諸葛亮は微かな不安を深めた。自分の言葉に一喜一憂しているようではまだ一人前とは言いがたい。「優秀」という言葉の代名詞にもなった「白眉」とうたわれた馬良の弟であり、その同じ血筋を引く馬謖。勿論馬謖も優秀ではあるのだが、兄が持ち合わせていた奔放さや剛気さ、愚直さなどが若干欠けているきらいがあった。
しかし、馬謖にも良い所は多くあった。何より勉強熱心であったし、執務もよくこなした。問答における受け答えはまさに打てば響くで、やりとりをしていると気持ちがいい程であった。その為に己の後継者として育てているのは周知の事実である。
ただ、以前に一度あった出来事から、どうやら己を必要以上に慕っている気配があるのを知ったが、それには見て見ぬふりをしていた。
本当は正面から一度話し合う必要もあるのかも知れないが、そこは為政者としての卑しい心で、拒否をした際に変に臍を曲げられても困るという打算から結論は保留にしていたのだった。この人手が不足している中、忠臣が一人でも減ってしまうのは何としても避けたかった。そして馬謖自身もあれから特に何を言ってくるでもなく、するでもなく、今まで通りの姿勢に戻ったのだった。
「あと、後ほど渡される指示書は王平にも読み聞かせておいて下さい」
「・・・え、私が」
そんな事他の者にやらせればいいのに、という不満が今度ははっきり見て取れた。こういう傲慢さもまだ一人前にはなれない原因のひとつであった。
諸葛亮は自分の顔を指でさしながら言った。
「気を付けなさい。いいものではありません。また、そういう心持ちがいつか貴方を滅ぼす事があるやも知れません。要慎なさい」
「・・・申し訳ございませんでした」
「私に謝っても仕方がありません。貴方の為に言っているだけのことです」
「はい。・・・有り難うございます」
馬謖は拱手の礼を取ってから、軍議室を出て行った。
その後ろ姿を見送ったあと、諸葛亮は僅かばかりの溜息を漏らした。

  

  

建興六年の春。
ついに本格的に大軍が動く北伐が、始まるのであった。

  

  

   

  

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